日本船舶海洋工学会 関西支部 海友フォーラム K シ ニ ア
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Marshall Meek氏の自叙伝 「THERE GO THE SHIPS」 を 読んで

2008年6月9日 藤村 洋 
 

 「造船屋は棟梁だから・・」 と古賀さん (故 古賀繁一氏 ・ 元 三菱重工会長) が言っておられたということを先輩から聞かされた。
 「棟梁になれ」 ではなく 「棟梁だから」 という表現は、それが あるべき姿であるということを前提としている。
 英国造船界の先達Meek氏の本を読んで、これは正に 「棟梁造船屋」 の自叙伝であると思った。

 かつて、3K職場などという言葉がはやった、私はこれをもじって 「造船屋に必要な3Kは、声、勘、体だ」 と自分でも思い、人にも言った。 さらにその後もう1Kを加えた、好奇心である。
  自分の意思を明確に伝える “こえ”、
  あらゆることを敏感に察知する “カン”、
  いざとなったら率先修羅場に飛び込む “カラダ”、
  そして何事にも関心を示す “好奇心”
は 造船屋に必要な気質である。 この本を読んで、Meek氏もやっぱり4Kを備えた人だと思った。

 彼はスコットランドの人である。カルヴィンやルッターとは違う実践的なプロテスタンティズムの地である。 この本の中にも“Brethren”(兄弟団)、”Christian Business Men’s Association“、”Gideons”(聖書頒布の団体)などの信仰に関わる団体の名前が出てくる。 彼の真摯な仕事への取り組み姿勢は奉仕の精神にそのルーツを持つものであるように見受けられる。

 同じ仕事をした造船屋であるが、国は先進造船国、職場は大半が船主と、私自身とは反対側にいた人が、日本を、そしてそこの造船業をどう見ていたかを知る上でこの本は有益な本である。 しかし、日本の造船屋はこれ程率直な物言いを関係業界や政府や諸団体に対してなし得るであろうか。 讃辞も多いが辛らつな批評も遠慮会釈なく言っているように見受けられる。 このような本が書かれ、またそれを受け入れる英国という国の懐の深さを思い知らされる本である。

Naval Architect

 造船屋のことを英語ではNaval Architectと言う、ということは大学で教わった。 しかし、後年アメリカに行ってNaval Architectというと怪訝な顔をされた。 仕方がないのでShipbuilding Engineerだと言うとああそうかと判ってくれた。 この言葉はアメリカでは知られていない“英語”であると思った。 Meek氏はこの本の第13章に 「Naval Architect」 という章を設けているほか随所でNaval Architectについて記している。 日本の造船屋の原型を見るようでなかなか面白い。

 彼は1942年12月19日(土) (よく覚えている!日記を書いていたのであろう) 父に伴われて生まれ故郷を離れてDundeeのCaledon造船所に連れて行かれ、Apprenticeとして就職した。 この時の職場は“Drawing Office”である。 彼は1年後大学に行き、会社の奨学金をもらって造船学を学ぶ、そして再びヤードに戻ってからは造船所の初めての学卒としてDundee Technical Collegeの夜学で講義をするように要請された。 Apprenticeとしての5年が過ぎた頃、彼はShip Design Officeに入る。

 Drawing Officeの志ある若者の進む道は3つあった。 1つは“Out Side”もしくは”Ship Manager”と呼ばれるヤードマネージメントの道である。 今日で言えば工作部の工事担当者であろうか、船台から艤装段階まで船の世話を見る人である。 そして行く行くは造船所全体のマネージャーになる。 2番目は造船所を飛び出してロイドその他の船級協会の検査官になる道。 3番目が設計者として進む道。

 彼は3番目を採ったことになる。 Design and Estimating OfficeはDrawing Officeの隣にあったがそこには僅か4〜5人しかいなかった。 “Chief Estimator”が設計されつつある船のコストをはじき、客に船価見積もりを出す。 その他に”Naval Architect”。 ここで彼が初めて描いた”Lines Plan”は小さなタンカーのものだった。 夜、ペイなしの2,3時間の残業をして仕上げたことが忘れられない。 使った道具は6インチ、12インチの計算尺、Fuller Barrel Slide Rule、インテグレーターなど。 さらに彼は進水計算とLaunching Planも担当した。 進水に伴うリスクと成功したときの感激を述べ、船台進水に比べてドック進水は全く味気ないと言っている。 私の経験とも重なるところがあり、この辺の記述には大いに共感を覚えた。

 これらの記述から判断すると、この造船所の“Naval Architect”は私が経験した 「計算係」 の仕事と同じような仕事をしていたように見える。 彼は2年後にBSRAに転職しているので、この”Design Office”でどれだけのことを経験したのか不明であるが、後年の記述の中に復原性や水槽試験のこと触れているところを見ると、多分このOfficeではいわゆる水性能に関することも担当していたのであろう。 船こく図はDrawing Officeで描かれていたように見える。 艤装設計については触れられていないが、すべての艤装品の選択と発注は革表紙の ”Order Book” とカタログの山に囲まれた数人によってなされていたと書かれている。 鋼材だけは特別のシニアによって “Black Book” によってなされていた。 このような記述からすると ”Naval Architect” は日本のわれわれが “造船屋” と称しているものではなくもっと狭い “計画屋” という範囲に相当する概念であったように思われる。

 BSRAでの勤務の後、彼はShip Ownerの世界に入っていく。 1953年から1978年までの25年間、Blue FunnelすなわちAlfred Holt社でNaval Architectとして働く。 第13章の冒頭に彼は 「船主会社でNaval Architectとして働くことは美味しい(plum)professional jobである」 と書いている。 「多くの英国大手船主は技術陣を持っている、しかし中小船主はNaval Architectは持っておらず、僅かなEngineer Superintendentを抱えているだけである。 そしてこれらの船主は造船所に船を注文し、最小限のやりとりをするだけで設計も任せる。 大手はもっと積極的な関心を持って初期設計から建造段階まで関与する。 しかし、このような会社も多分ひとりのNAと数人のスタッフを持つに過ぎない。
 一方、BFのChief NAはその歴史と伝統から他社に比べて格段に多いスタッフを持っている。 そして、会社は造るべき船の設計についてきわめて強い関心を持っていた。 設計の検討は入札が行われるはるかに前から開始され、入札の時点では、造船所の前には十分検討されテストされた装置を織り込んだ分厚い仕様書がドンと置かれる。 しかし造船所はこの船の構造、性能などのすべてについて責任を持たなければならない。 つまりBFの設計を検証しなければならない。 船主の社内では、NAがエンジニアリング担当の同僚と一緒に、船主が必要とする船を入手できるように保証する責任を持つ。」

 このような責任を果たすために彼はスタッフの編成に取り組む。 その当時船の寸法が次第に大きくなり、最早、従来BFの船を造ってきてそのやり方に慣れているクライド河岸の造船所に建造を依頼するわけには行かなくなった。 有能なAssistant NAを得て彼は陣容の補強を行う。 そのやり方は新卒を採用するのではなく、造船所で経験をつんだ人を求めた、造船所からは時には苦情を言われながら。 採用した多くの人が永年この会社に勤務した。 BF社の性格も終身雇用を指向していたが、それ以外にもNA部が魅力ある職場だったということもその理由の一つであろう、と彼はいささか自画自賛している。 多くの有能な女性たちもいたらしい。 そして2001年にこれらの部下とRe-unionの会合を持ったことを喜んでいる。

 彼のNA Officeは設計の仕事のほかにも様々な仕事をこなした。 乗り出しの準備のために尋ねてくる船長や1等航海士たちにStabilityやLoadingの説明をすることなどで忙しかった。 そして、彼は次第に外部の委員会などにも引っ張り出されるようになる。 彼は 「今日では考えられないことだが、・・」 といって、会社が外部の諸活動に関する費用について何らの制約もしないばかりかそのようなことに関心を持つことを奨励した、そしてこれはHolt Familyの公への奉仕の精神のなせる業であろうと述べている。 後年彼がマネジャーからリバプール市の裁判所の判事になることを薦められたのも驚くことではなかった。

 船会社の中でのもう一つの大きな技術陣はMarine Engineeringであった。 彼は造船所においても、研究所においてもNAがリーダーシップをとり、MEは定められた領域でそれに協力するものだと思っていたが、BFでは様子が違っていた。 Alfred Holt自身がMEの出身であり、船のオペレーションではエンジニアが大きな役割を担っているからである。 しかし、NAとMEの対立は英国では根深いらしく、第21章“Institutions”の中で彼は 「RINA(Royal Institute of Naval Architect)とIME(Institute of Marine Engineers)との間には常に”a sort of needle”があった。私のおろかな友人がIMEのことを”単なる海のトラック運転手“とけなすのを聞いた。 ”私たちはデザイナーだ“という。 不公正なことだ。 MEもNAと同じくらい重要なのに。 しかし、実際はバリケードがなくならない。」 米国ではSNAME(SOCIETY of NA & ME)として両者が仲良く同じ協会の収まっていることを考えると、いささか英国のNAの鼻が高すぎるのではないかと思う。

 英国ではNAは、牧師、弁護士、医者などと同じプロフェッショナルな仕事であると考えられていたらしい。 これは日本と違うところである。 そして彼は、上記21章の中でこのようなプロフェッショナルに対して認定や登録のシステムを用意するのがInstitutionの一つの働きであると述べている。 もう一つ日本と違うところはNAのかなり自由な職場移動である。 彼自身も造船所―研究機関―船会社―他の造船所―各種委員会と様々な職場を渡り歩いている。 このような流動性は、ある階層の人にとっては一般的であるが、一方BFの設計陣の多くの人が終身BFにいたように動かない階層もあるらしい。 動く人たちは必ずしもインテリとは限らず、彼が初めて勤めたCaledonの現場のシニア職人たちのように渡り歩く人もいる。 インテリで渡り歩ける人をプロフェッショナルと称するのであろう、そしてその能力を保証するのが学会(Institute)なのであろうか。 職人の世界の保証人はギルドのような職種別組合ではなかろうか。 日本の場合はインテリ設計者に渡り歩きの自由はないが、現場の末端を担う溶接工や塗装工は渡り歩きをせざるを得ない仕組みになっている。

 Naval Architectをプロフェッショナルと見る感覚は、同時にNAをデザイナーとも見ている。 彼は後年コンテナー船の設計に対してRDI(Royal Designer For Industry)というタイトルを貰っている。 わが国では 「Ship Of The Year」 は選ぶが、設計者を表彰する習慣はない。 これは 「設計者」 というべき人を特定することが困難であるからである。 英国を負かした“効率的な造船業”を支えたエンジニアリング・システムからはプロフェッショナルは出てこないということであろう。 いずれをもってよしとするか議論のあるところである。 ただ私のきわめて個人的な感触では、最近日本の造船屋もプロフェッショナルになってきたように思う。 それは造船不況と会社の合従連衡で“藩”がなくなって“浪人”が多くなったという苦しい現実が齎したたくましい“ひこばえ”のように思う。 学会はこのような動きに対してどう変化していくであろうか。


日本の造船所についての記述

 Meek氏がはじめて日本を訪れたのは1956年のことらしい。 BF入社後研修のために極東各地を旅行した時のこと。 ドイツについても彼は同じ感懐を述べているが、ついこの前まで戦争をしていたことを思わずにはいられなかったが、人々はすべてフレンドリーだったと言っている。 二つのことが印象的だったと。 「一つは平均的な日本人はヨーロッパ人に比べて判りにくい、なかなか本当の気持ちが分からないこと、二つ目は原爆とそれが日本国民に与えた影響について語るときの、考えてもいなかった、不思議な熱心さである。 あとで長崎に行ったとき原爆記念館で詳細にその状況を見た。 さらに広島でも同様だった。

 ことBFに関して言えば、そこと商売上の関係を持ちたいというはっきりした気持ちがあったので、三菱・横浜、浅野ドック、ロイド協会でわれわれは大いに歓待された。 翌朝ホテルが揺れるので目が覚めた。 初めての地震の経験だった。 翌日列車で神戸に移動BFの船のほかOSKの“ぱなま丸”を見た。 忙しい一日だったすべてのものは目新しかった。 “ゲイシャガール”、酒、ばかげたゲーム(じゃんけん遊び?)そしてテーブルの下の炭火の暖房。 クリスマスの夜には三井・玉野のクラブハウスに招かれた。 そして日本人には意味がないであろうに、クリスマスを祝う栄誉に浴した。 親切にクリスマスツリーのようなものを置いてくれたし、スポンジで造ったアイス・ケーキもあった。 ゲイシャについては何の話も出なかった。 はじめに英国でするようにお祈りをした方がいいのではないかといわれたので私は全く珍しい状況の中でお祈りをした。 そして最後は“蛍の光”で終わった。」

 その後彼は長崎を訪問、造船所、試験水槽、原爆記念館、大浦天主堂、蝶々さんの家などを観ている。 そして下関から自社船に乗って横浜に戻り、日光を見ている。 この後彼は香港、シンガポール、西豪州などの港を巡り各地の出先と意見交換し、港にいる自社船を見学し、乗り組みの話を聞き、自分たちの仕事が如何に重要であるかを認識し研修旅行を終えている。

 次に日本について述べているのは、1964年の始め“Pクラス”の建造にあたって初めて日本ヤードに発注した時のことである。 このプロジェクトは設計に様々な改善を加えた船の建造で、きわめて重要な案件であった。 二つの懸念があった。 一つは英国ヤードの工程遅れであり、もう一つはコンテナ船がひたひたとこれらの高速ライナーの背後に迫っていたことである。 この懸念をクリアするために日本の造船所に発注する決心をした。 様々な調査の結果日本の造船業が進歩していること、政府が造船業の後押しをしていることなどが判っていた。

 工務の責任者が63年末訪日しよい報告を齎した。 「英国ヤードから出された見積船価は3百万ポンド台だった。日本のそれは12〜20%安かった。 経営陣はBFで4隻、関連会社のグレンラインで4隻計8隻、内2隻を日本の三菱・長崎造船所に発注すると決めた。 その後、スペックを検討した結果として、三菱が工程の変更を申し出るまで数ヶ月とかからなかった。 そして新しい引渡し日を決めた。 われわれはこの時、船価の変更も言ってくるのではないかと思っていたが、三菱は何も言わなかった。 その後の船で引き合いを出したとき三菱はきわめて用心深かった、そしてバーゲンは2度となかった。
 当時三菱は英国ヤードの能力一杯に相当する受注残を抱えていたという。 英国ヤードの遅延はひどかった。 ヴィッカースのはじめの5隻は7ヵ月半、最後の1隻は11ヵ月半であった。」 この後、彼は英国ヤードの惨状について嘆いている。 そして遅れて引き渡されたPクラスの最後の船を受け取った1967年には彼らはコンテナ船の建造にかかっており、Pクラスは早すぎる転売の憂き目に会った。

 その次は1969年2000個積の大きなコンテナ船の設計にあたり日本のビルダーにこの種の船の商談に興味があるかどうかを聞き、また古い友人の三菱、三井それにIHI,日立、川崎との意見交換をしたいと訪日した。しかし、三井を除いて他の全部が、工期が合わないという理由で興味を示さなかった。彼は本当の理由はこのように難しい船をBF向けに作る危険を冒す気がなかったのだと勘ぐっている。われわれの要求する標準が高いことは今でも三菱のPクラスの経験を通じて日本中に知れ渡っていると推測している。

 正確なタイミングはわからないが、この時期はわれわれ日本のコンテナ船ビルダーは日本船主向けの2000個積への対応で精一杯で、とてもBF向けに力を割く余裕はなかったと思われる。 三菱といえどもその段階ではコンテナ船設計が出来るのは1ギャングしか居なかった。 BFだからという特別の考慮はなかったであろう。 これが私の見解である。

 コンテナ時代に入り従来型のライナーサービスがなくなってくると、BFはタンカーへの進出を考える。 1971年Getaverken建造の25万トンVLCCを購入する。 そして72年日本鋼管の新鋭造船所津に2隻目を発注した。 ヤードの標準設計だからということで、BFは監督をすることを“許して”もらえなかった。 「まだ三菱の2隻のPクラスの亡霊はさまよっていた!」

 74,5年三井・藤永田で5隻の小ぶりなバルカーを建造した。 これがBFが監督をすることが“許された”2番目のケースである。 表向きは“観察する(Observe)”ということで。 RK氏という元外交官?がこの難しい仕事を担当した。 この船はセントローレンスマックス型でいろんなトレードに使われた。 妻のElfridaが進水式に招かれた。 MM氏がかつてCaledon造船所で1947年に建造した船と同じ名前が付けられた。 三井は上手に対応してくれて、世界1週の旅を盛り込んでくれた。

 同じ頃、4隻のCombo Shipを三菱で造った。 BPがキャンセルしたVLCCの代替として発注した。 三菱の“Old Friends”と共同して難しい荷役装置の付いた設計を纏め上げた。 しかし、これらの船もBFを延命させることは出来なかった。

 さて、以上がこの本に書かれている日本ヤードとの個別の商談の 「事の次第」 である。 最後に彼は世界中の造船所との付き合いを国ごとにユーモアをもって短く振り返っている。 日本については 「いまや自信を持って世界のリーダの道を歩んでいる、しかし、いまだに“わからん”(Inscrutable)国である。」 と言っている。

 日本について 「三菱・長崎の経験が徹底的に日本中に知れ渡っている」 と彼は推測している。 三菱が自社で起こったことをおおぴらにしゃべることはないから、多分どこからかしみ出たのであろう。
 ただ、何故こんなに痛い目にあったのかをこの本の記述から推定すると、まずBFのスペックの異常な高さということがある。 彼自身がBFについて語っている中に、BFはオープンマーケットで保険をかけない(船体保険をかけない?)というのがある。 船隊の数が多ければ保険でカバーするよりも自社で相当分を積み立て置いたほうが得だというのはメジャーオイルの例で聞いたことがある。 しかし、それ以上にBFはその金を船を丈夫にするほうに廻していたように見える。 BFの見識の高さはロイドも信用しない、満載喫水線条約にも不信感を持つというほどのものであったらしい。 そしてその風潮は設計陣に染み渡り次第にオーバースペックになっていたのではなかろうか。

 このような贅肉を、はじめて付き合う造船所は知ることが出来ない。 三菱ならずとも各ヤードは一度経験したシビアな船主仕様は次の機会に見積もりに反映する知恵は持っている。 しかし、最初には判らない、従って短期間でオッファーのための見積りをしなければならないときにはこれらの贅肉分が欠落するのは避けられない。 三菱に最初のショートエスティメートがあったとしたら、そのような理由であったであろう。 赤字がわかったとしても、オファーの修正を申し出る習慣はなかったであろう。 納期は物理的に不可能だから申し出た。 すこぶる当然の対応である。 Meek氏は短期間のスペック検討で工期の不足を予測した三菱の技術・管理力を評価する反面ずるずると引渡しを延ばした自国ヤードの不甲斐なさを嘆いているように読み取れる。
 なお、日本ヤードの建造効率の良さについての一般的な意見、またそれに耳をかさなかった英国ヤードの経営陣、労働組合などに関するMeek氏の意見についてのコメントは省略する。


コンテナ船への取り組み、アメリカ船主との違い(私の経験から)

 Meek氏は1965年英国船主の間で行われたコンテナ輸送という新方式についての論議を詳しく述べている。 そして船も港の設備もどうなるかわからない、また1社では背負い切れない大きな費用が必要であろうという見通しから、BFとP&Oの両社は他の2社を誘い込んで4社(UKのライナー船腹の2/3を占める)でコンソーシアムを組むことを決心し、OCLを誕生させる。 ここが持つことになる新しい船の開発をどうするか、外部のコンサルタントの執心も含めて議論になったが、トップは社内技術陣に任せることを決める。

 次に錚々たる4社の技術陣の誰が船を纏めるかが協議されBF工務陣に任されることになる。 彼はこの難しい仕事をこなすために、他の3社の技術者を組み込む、腹心をOCLの中に連絡役として送り込むなど陣容の整備を行っている。 そして設計の内容に関する技術的な検討は広く外部にも意見を求めている。 アメリカのJ.J.Henryなどのコンサルタント、LR,GL,NVなどの船級協会(LRよりGLの方が熱心だったと言っている)、大学、そしてドイツの造船所など。 そして1966年後半のてんてこ舞の数ヶ月を経て、6隻の船の発注を決めている。 5隻をドイツヤードに、そして1隻を政治的理由で英国ヤードに。 ドイツヤードはコンソーシアムを組んで建造した。 船主とドイツヤードの関係はきわめて良好で、技術的にも大きな信頼を置いている、納期も予定通り69年3月に第1船が引き渡された。 対する英国ヤードは予定より1年遅れてやっと引き渡したが、様々なごたごたがあった。 引き続いて1969年にはさらに大型の“Liverpool Bay”クラスの設計検討に入っているが、この時はドイツヤードの設計陣と早い段階から協力した。

 この一連の取り組みを読んで、私は次のことを感じた。 ひとつは、これはまことに堂々たる、オーソドックスな取り組みであるということ。 2番目はそれをコンソーシアムという形で船主が共同して取り組んだこと、これはアメリカとも日本とも違う形であろう。 3番目は常に造船所をリードすることを誇りともしてきた彼らが造船所の力を利用することの重要性について気づいたということである。 1966年4月Sea-landが大西洋航路にコンテナ船を投入してから、USL、ACTなどがいち早く反応したようである。 OCLの対応は少し遅れたが、フルコンテナ船の新造としては欧州のトップバッターだったのではなかろうか。 ドイツの造船所との協力に価値を見出したということであるが、その背景にはドイツヤードの積極的な姿勢があったであろう。

 さて、この時期、私は三菱・神戸でマトソン社のC3貨物船のコンテナ船への改造工事に遭遇していた。 これが三菱の取り組んだはじめてのコンテナ船である。 67年1月から9月まで、改造船工事としては異例に長い工期だった。 コンテナとは、から始まりセルガイド、ツイストロック、コーナーフィティングなど構造や装置の名前、機能などの勉強などに時間がかかった。 しかし、設計も現場もこれでコンテナ船についての知識を積むことが出来た。 ほぼ時を同じくして日本船社のコンテナ取り組みが始まったから、初めての新造コンテナ船の設計を担当する本社船舶技術部の故小野雄二氏などもマトソンの改造工事を見て勉強することが出来たはずである。 1年遅れの68年9月にはNYKの新造コンテナ第1船“箱根丸”が完工した。 OCLの第1船より半年早かったことになる。 

 Meek氏の経験と同じようにNYKもこの寸前まで超高速ライナーに取り組んでいた。 三菱3重工合併前夜のことである。 当時NYKのライナーは横浜と長崎が造っていた。 高速ライナーは横浜の山梨丸、長崎の山城丸、前者はノルマルバウ、後者はバルバスバウだった。 NYKは両船型の比較を載貨状態でも行いたいと考えた。 折りしも神戸が電波式の速力測定装置を開発してマイルポスト以外の場所でもスピードが計れるということを聞いて横浜からほぼ満載状態で出港する山城丸に機械を搭載し神戸入港直前に速力計測をやってくれということになった。 結果は忘れたが、その後合併があり、以降NYK向けもライナーは神戸で建造することになり、次船伊勢丸は山城船型で造った。 直ちにKクラスに移り、加賀丸で当時の貨物船最高速を記録した。 これらのすべての海上公試運転は私自身担当し、興奮を味わった。

 それからコンテナ船に急速に変わった。コンテナ船の船型もバルバスバウが継承された。この新造コンテナ船への取り組みは日本のスタイルで船主、造船所一体となっての協業だったのは言うまでもない。 OCLの場合のように、船主同士、造船所同士が手を組むということはなかった。 系列という欧州にはない日本独特の企業結合が作用していたのであろう。

 改造船から新造船というパターンは改造船を得意としていた三菱・神戸の船主戦略でもあった。 8年後の76年、バージキャリアーの開発という変わった引き合いがあり、私が対応した。 シアトルのある開発者が相手だったが、その後ろにはSea-landが付いていた。 結局はものにならなかったが、その時の対応を評価して、SLからコンテナ船の改造の引き合いが来た。 タービン船をディーゼル船に変えようという変わった工事だった。 「航跡」にその内容は書いたので省略するが、その成功を再びSLが評価して新造のディーゼルコンテナ船の引き合いを呉れた。 当初はほぼ単独の商談だったが最後になって突然12隻欲しい、先ず三菱がスペックを書いてくれ、それでビットにかけるという話になり、三井、現代を巻き込んだ12隻建造がまとまった。 この始めから終わりまでプロジェクトリーダーを務めた私の相手方はSL社の工務担当重役Richard T Soper氏であった。 温厚で、クラシック音楽の造詣が深く、9000枚のレコードを大事に持っているという人だった。 後年ABSのトップも経験したようである。

 ちょうどMeek氏と同じような役回りであったが、船主の工務陣、会社の意思決定のやり方などはこの本で読むBFのそれとは全く違っていた。 Inovatorである会社と100年を越す歴史を持つ老舗の船会社の違いであろう。 SL-7の話なども聞いたが、Twin ScrewのShaft-bracketの振動で困った時は水中にダイバーを入れて航走中の状況をカメラに収めて解析したと聞いた。 その大胆なやり方にびっくりした 技術者もプロジェクトが始まったらどんどん入社して来る、入ったばかりで何も判らない、私の方が教えてあげる始末だった。 しかし、決断は早かった。

 この12隻プロジェクトでは、始めに“Engineering Agreement”という基本計画に関する契約をSLと三菱間で交わし、その基本計画で各社入札、建造するという方式だった。 三菱社内では本社技術部は関与せず、神戸の設計部が船型試験場などと協力しながら全部を引き受けた。 図面は三菱が作るが、スピード、DW,コンテナ個数などは各社が保証するという契約であったから、初期の推定の正確さが必要であった。 バックアップ陣でそれをこなしてくれたのは現・関西支部長・佐田国さんであったと思う。 第1船を神戸が造り、重査、試運転の結果、きわめて高い精度で保証をパスした。 速力試験は満載状態でもやらされた。 コンテナホールドに清水を張って出港した。 第1船ですべてのことをきれいに実現して私は安堵の思いに浸った。

 神戸の初期計画陣は人数は少なかったが詳細設計陣と協働が出来るメリットがあり、コンサルタント頼りのSL工務陣から見ると本当に頼りになる相手であったのであろう。 現在保存委員会で活躍中の木村文興氏らと共に何度もニューヨークへ通ったが、船主からは大きな信頼をもらった。 Meek氏とドイツの造船所の間柄に似た関係がわれわれとSLの間にもあった。 彼の記述をわがことのような気持ちで読んだ。 その後紆余曲折があり、SL社も変わってしまった。 私も仕事を離れて久しいが、Soperさんとは今でもクリスマスカードのやり取りをさせてもらっている。 毎回 「君たちとやっていたときが一番楽しかった。今はなにもかもすっかり変わってしまった」 と書いてくる。 時は移って行き、BFもSLも消えてしまったということだろう。

 一口にNaval Architectと言うが、Meek氏のNAとわれわれがSLから評価されたNAとは内容が異なっている。 われわれは詳細設計から現場工作まで含めたトータルなエンジニアリングの上に船の設計を纏めるという力を持っていた。 多少の差はあるとしても、それが日本の造船所が持っているNaval Architect力であると思う。 設計とは何か、デザインとはなにか、そして設計者とは如何なる人か、Meek氏の記述と自分の経験とを照らし合わせていろいろ考えさせられた。

 ともあれ、Meek氏の叙述は造船屋の様々な哀歓を含んでいて、共感するところが多かった。 若い日の製図室の情景、進水の喜び、興奮、プロジェクト完遂時の達成感、世の移り変わり、国や立場が違っても同じ仕事から与えられたものは変わらないという感懐を持った。


(補遺)Scottishということ

 Meek氏はスコットランドの出身であるが、平行して読んだ下記の本に興味ある記述があったのでご参考までに要旨を書いておきたい。

  「スコットランド・ルネッサンスと大英帝国の繁栄」  北 政巳 著  2003年3月 藤原書店刊

 スコットランドは古くからきわめて教育に熱心なところであったらしい。 「1496年欧州で初めてと言われる義務教育法が定められている。これにより教区学校、文法学校という初等教育が行われた。その後様々な曲折を経て1696年 「学校設立法」 が制定された。 この段階では 「キリスト教知識普及協会」 と 「各種専門学校」 が活躍した。 学校は大衆の寄付によって支えられた。 実業主義的教育が行われた。 イギリス産業革命の主体的な担い手となった発明家・技術者・資本家の多くがスコットランド出身であった。」
  (Meek氏も中学ではラテン語を学んでいる。
   また大学の時はカネギーの私的奨学金の援助を受けたと述べている。)

 「19世紀の中葉、スコットランドではグラスゴー大学、アンダースン・カレッジを中心に商業革命を遂行する多くの技師を教育・輩出した。彼らはスコットランド伝統の実業主義の上に“エンジニアリングの思想”を掲げた。 つまり中世以来、西欧キリスト教社会では専門的職業(Profession)として3つの職業:牧師・法律家・医師は認められてきたが、彼らスコットランド技術関係者は“エンジニアは4番目の専門職”と主張した。 そしてフェアバーン卿は“エンジニアというのは、言語的に厳密に定義してエンジンに関与する人間と決める必要はなく、心の中で成功への諸手段を求めて、精神と行為を共に実践し、如何なる困難な職務をも遂行してゆく人物”と定義した。 彼らは18世紀末以来のスコットランド産業革命の中で、土木工学を中心として工業化に尽力し、自らが“エンジニアは社会経済発展の原動力であり、社会進化の旗手である”との思想を実践した。 ・・さらに彼らの孫世代がインド・極東・南米・アフリカの鉄道事業などに参画した。
  (Naval Architectがprofessional jobであるというのがMeek氏の見解であったが、
   もっと広くエンジニア全体を専門職と考える思想があったらしい。)

 そして、グラスゴー大学で学んだダイアーが1874年来日し、工部大学校初代校長となるが、その際、同僚のグラスゴー大学教授陣と共にこの“エンジニアの思想”を導入した。 当時の日本から見れば“エンジニアは経済発展の原動力”の思想こそ希求されるものであった。 興味深いのはこの“エンジニアの思想”がビクトリア期のイギリスがイングランド秩序で再編される中で流産に終わるのに対して、アメリカや極東の異文化の島国・日本で見事な結実を見たことである。」
 幕末から明治にかけて来日した著名な外国人にはスコットランドの人が多い。
    第1号お雇い外国人    ブラントン
    長崎の外商         グラバー
    工部大学校長       ダイアー
    海運造船の功労者    ブラウン
彼らが日本に来た理由は様々であろうが、背景にはスコットランド伝統の海外指向がある。

 Meek氏は日本の造船業を最大のコンペチターと呼んでいるが、日本を敵視している風情はない。 むしろよくやった!という感じであり、反面自国の情けなさを嘆いている。 日本に来たスコットランド人は教えた相手がいつの日か競争相手になる、そして負けるかもしれないということは予想しなかったのであろうか。 判っていても敢えて海外に出たというならその背後にあった思想は何だったのだろうか。 日本と韓国・中国の間にも同じことが起こっている。 どのように推移していくのだろうか。


あとがき

 Meek氏はこの本を自分の生涯を振り返った“織物”の様だと言っている。 同じように、個人史を除いた造船界の織物は関西支部が90周年記念に出した 「航跡」 であろう。 多くの技術者の縦糸、横糸で織られているすばらしい織物である。 Meek氏と多分面識もあり、同じような経歴を大型タンカーを中心に歩んだ畏友 宮崎晃氏の 「若者よ海に向かってはばたけ」、コンテナ船の開発について述べたKシニアの仲間 小林幹弘氏の 「コンテナ船の建造に関わって」 はこの本と共に読んでいただくと良い示唆を与えられる。 最後にこの本を読むきっかけを与えてくださった神田修治氏の海友Fへの投稿に感謝する。 
                                                        (完)