日本船舶海洋工学会 関西支部 海友フォーラム K シ ニ ア
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「運河シリーズ 南仏篇」  ミディ運河からマルセイユへ − 自然と歴史ロマン
 第109回海上交通システム研究会−海事の楽しみ(2011.07)を 一部加筆編集
2012.02.07   岡本 洋
◆ はじめに

 運河の尽きない魅力は、その多面性、重層性にある。
 スエズ、パナマ運河もそうだが、古く日本を含めて中国・欧州で作られた幾多の大規模運河は、すべて当時としては国を挙げての巨大工事であると共に、そこには権力者の壮大な夢がある。 またそれを駆り立てた政治・経済・文化の歴史的な大きな流れがある。 加えて関係者多くの人間ドラマも、技術ブレークスルーの革新もある。 現実にその運河に身をおくと更に魅力はたかまる。
 ミディ運河はそれらの要素をすべて兼ね備えた代表格といえる。 仏・南西の大西洋と南の地中海、この二つの海を結ぶ運河で、Sea to Sea 運河ともよばれる。 既に300年も前の1694年に完成された。 我が国の江戸時代元禄7年、芭蕉の亡くなった年に当たる。
 ミディ運河は観光が主体となった現在、世界遺産に認定されて、多くのフアンをひきつけている。 本稿では、レンタル・クルーザーボートによる現地旅行体験を交えて、ミディ運河の多面的な魅力を紹介する。
                                                            写真集(抜粋)


◆ミディ運河とは

        図1 地中海と大西洋  運河の場所                     図2 フランスの地形

 この運河は、図1に矢印で示すフランス南西部のビスケー湾とフランス南部の地中海を結ぶ運河。 古来多くの権力者は、北欧州から更に世界の海につながる大西洋(ビスケー湾)と、ヨーロッパの政治・経済・文化の母胎ともいえる地中海(リヨン湾)を結ぶロマンに満ちた構想にかられた。 然し、大西洋と地中海の分水嶺(図3、トゥールーズの少し南)に水を供給する根本問題を解決できなかった。
 この永年待望の事業成果が、このミディ運河である。 「二海結合、Sea to Sea (Canal des Deux Mers ドゥー・メール運河)」ともいわれる。運河といえば、世界に先駆けて成し遂げた英国の「産業革命(1760〜1850年)」による石炭などの大量輸送のために盛り上がった英国の「運河狂時代Canal Age(1760〜1820年)」が有名だが、この運河は、それよりも更に約100年も前の1694年に完成している。 フランス最盛期の太陽王・ルイ14世の運河建設構想の夢を、独創的な推進者ピエール・ポール・リケと技術者が解決した成果である。
 厳密には、図3に示す、「ボルドーからトゥルーズ」までの「ガロンヌ川+ガロンヌ運河」と、「トゥールーズからセテ」までの「ミディ運河」と一体で、Sea to Seaとなる。 広義には、更にローヌ川までの、「ローヌ・セテ運河」を含めて「ミディ運河」と言うこともある。 「ミディ」とはフランス口語の「南」の意味だが、Sea to Seaの中間地帯の名称が「ミディ・ピレーネ地域圏」といわれる為かもしれない。


◆帝王の夢から現代の世界遺産へ

 図8「ミディ運河を中心にした年表」(以下年表)参照
 このミディ運河の建設案は紀元前に遡る。 ローマ初代皇帝アウグストスにはじまり3代皇帝ネロの名も登場する。 また北海から黒海に繋がるマイン・ドナウ運河建設に挑戦して完成手前で無念にも断念したカール大帝(800〜814年在位)の名も、更にその他の皇帝の名もつづいて登場し、壮大な大河ドラマをおもわせる。
 図8 年表(E1〜4)、参照。 (内)の E1〜4 は相当記述の縦横の位置を示す。

    
  図3 大西洋から地中海へ   図4 ミデイ運河の代表的な風景,両岸に延々と続く45,000本のプラタナス並木とトウパス

 そして後述するように、遂にフランスの最盛期太陽王ルイ14世の治世1694年に完成したミディ運河は、その後も引き続きフランス建築関係者他の300年の継続努力で改善・保守がつづけられて、現在はその魅力的景観により世界のレジャー・ボート客や観光分野の評価を高めていて、1996年に、 「240Kmにわたる運河の庭園的領域ほか」 として世界文化遺産に認められた。 重厚な石造りの運河橋、楕円形ロック、どこまでも続く運河沿いの並木などの魅力に満ちていて評価が高い。


◆南仏運河クルーズ体験

 平成14年(2002年)9月20〜29日   

 レンタル・クルーザー・・・ Crown Blue社のレンタル・クルーザー3隻20人の運河同好グループに参加。 ミディ運河とラングドック運河(ローヌ・セテ運河)を1週間掛けてクルーズ。 そのほか近接する遺跡施設など探訪。

 グループ・・・「水辺と運河を考える会」(代表N氏・運輸省OB、M工大教授)。

 参加メンバー ・・・運輸省、東京都など現役数名、東北エコNPO他シニア有志。 女性数名をも含め20名。 このグループは2000年に略同じコースをクルーズ。 このグループの専属として、既に同様クルーズの経験をつんでいるパリ在住の日本人旅行ガイド1名同行。

 コース・・・成田・パリ経由、南仏モンペエリエ空港。 バスにてラングドック経由ボート基地にて、エーグ・モルトにてクルーズ・ボートに分乗、下記のコースを我々各自で操船。


◆コース訪問地概要
              
 モンペリエ空港 ― (カマルグ水郷) ―
 エーグ・モルト(中世城壁都市) ―
 グランド・モット(巨大マリーナ) ―
 (水郷地区) ― ポン・デュ・ガール
 (ローマの水道橋) ― アルル ―
 アヴィニオン ― マルセイユ(新旧の港の
 施設) ―

 ローヌ・セテ運河 ― (ラングドック・運河
 クルーズ) ― (可動橋各種通過) ―
 (湖水域の中の運河通過、フラミンゴなど)
 ― (セテ港入港) ― (タウ湖航行) ―
 ミディ運河 ― (ベジェの運河橋通過) ―
 7段ロックの通過 ― 運河トンネル ―
 並木の緑トンネルを航く ―
 7段ロックの通過 ―。 

                  図5 使用ボート

                 図6 コース訪問地概要
  (茶色文字)は、スポットで下船・チャーターバスにて訪問。 後ボートに帰りクルーズ続航)
  本文中に紹介した写真の他にボート・クルーズ写真の一部を別窓で示す。


◆運河水路図


         図7―A 隣国を含むフランス全土水路図     図7―B 大西洋〜地中海へのミディ運河水路図
         図7―C クルーズ水路の距離とロック数



                     図8 ミディ運河を中心にした年表

 

 
                                   図9―B  7段ロック 平面図


◆コース上、及び近辺の世界遺産その他

 この地域の魅力を 高めているものに複数の世界遺産がある。 フランスの世界遺産全33件中、次ぎの6件がこの関連地域にある。

 ミディ運河周辺の世界遺産 ―― ☆C、Dは今回訪問せず 又、★A、Bの説明は省略

 @ ポン・デュ・ガール(ローマ時代の水道橋、ニームへの給水。BC312年)。
 Aアルルのローマ時代の建築群 (1C頃の円形闘技場、劇場、浴場etc)。
 Bアヴィニオン歴史地区建物群 (教皇宮殿、アヴィニオン橋―ローヌ川の度重なる氾濫で崩壊、現存は17Cのものだが、
    半分から先は壊れたままの古い橋、etc)。
 C歴史的城塞都市カルカソンヌ (モンサンミシェル に次いで年間来訪者が多い人気、ミディ運河沿い)。
 D月の港、ボルドー (かっての港町ボルドーの歴史地区、17C新古典主義建築の都市計画の保存)。
 Eミディ運河UNESCOの公式登録理由は、「1 )人類の創造的傑作、2)記念碑的芸術・景観デザイン、3)建築、技術の
    集積と優れた景観、6)芸術的作品 」と技術と芸術性が高く評価されている。

 文献1)において、シリル・マリー氏の指摘は、フランス人の身びいきが在るかもしれないが、国立土木学校の歴史専門家の意見を引用して、現在のミディ運河はエンジニアによって造られた300年の歴史と、特徴的な景観を持つ一種の「領域を形成する庭園」という表現をしている。 筆者の現地体験は僅か1週間という限られたものだが全く同感であるし、Google Mapに投稿・公開されている多くの訪問者の写真群を見ると、そのすばらしさを十分に説明していると思う。

@ ポン・デュ・ガール (ローマ時代の水道橋)

   
          図10 ポン・デュ・ガール全景                        図11 下層上の通路にて

 現場に立つと2000年前の、石造りの巨大な構造物の迫力と技術力に圧倒される。 古代ローマ・アウグストス帝の紀元前19年の作品。 3層アーケードで各層の 長さx幅x 高さ 寸法は 下層=142 x 6 x 22 m、 中層=242 x 4 x 20 m、 上層(導水路) =275 x 3 x 7m。
 50 Km先の当時人口6万人 のローマの植民地・ニームまで2万m3/日 通水した。 それにしても、石ブロックの大きさは驚きだし、全体の優美さにも感服。

      
 その他に特徴ある施設として、今回訪問したものに次ぎのものがある。


A) エーグ・モルト (Aigues-Mortes)    図6、図7 参照

 ローヌ・セテ運河に面したこの場所は、紀元前カエサルが場所を画した場所とされるが、我われの今回のクルーズ旅行は、この城壁前の広い船だまりからはじまった。 現存するこの場所は、700年前に建設された城塞都市で、十字軍出港基地としてルイ9世 (1214〜1270年) が建設したもの。500 x300mの城壁に囲まれた町。
 ここから、第7次(1248〜54)、第8次(1270〜 )の十字軍が聖地エルサレムに向けてイスラム諸国からの奪還のために出港した。 王自身も2度出陣して最後は現地で死亡。 後に列聖となる

 建設当時は海岸線に面していたようだが現在は前面に有名な塩田がひろがる。 城壁の上に上ると、山積みされた塩の山が幾つも望見される。 中世からこの塩は貴重な輸出商品であったし、現在も有名らしい。

 因みに、それまでの十字軍の出発港は第3次(ヴェネチア)、第4次(ジェノバ)、第5次(マルセイユ)であった。 現在も続くイスラムとの根深い対決の歴史をみる想いだ。 

                       図12 エグモルト 全景

B) ラングドック、カマルグ   図6、図7 参照

 ローヌ・セテ運河、エグモルトを含むラングドツク地域とフォス港以西の地域は、ローヌ川の沖積地で複数の湿原、塩湖沼のつづく地形で、その中1.3万haが1927年に国立自然保護地域に、又1970年には300haが地方自然公園に、1986年には8.5万haがラムサール条約登録地となった自然いっぱいの地域である。 我々も運河を往くボートから、近くの湖沼に群がるフラミンゴや、放牧の白馬を眺めることができた。


C) 水郷とヨット・マリーナ ・・・ 水郷、グランモツト   図6、図7 参照

 水路が多いラングドック地域では、水郷の町の雰囲気と共にムール貝・エビなど地方色豊かな食材による食事を楽しめる。

  又 「グランモツト La Grande-Motte」は、1960年代と、1970年代に建設され、ピラミッド型をした均質型建築が特徴の大型マリーナを中心にした海浜リゾート。 年間200万人の観光客を集めるフランスで有名なところ。

 然し、対象は勤労庶民であり、ヨツトも豪華型は少数派。 ハイクラスはずつと東のイタリアに近いカンヌ、ニースに集まると聞かされた。

 それにしてもライフスタイルの違いを痛感させられる。 このほかのマリーナも探訪した。

                 図13 グランモット  ヨット・マリーナ


D) タウ湖とセテ島   図6、図7 参照

  ミデイ運河とローヌ・セテ運河の接点となるのがセテ港。 1666年にミデイ運河の工事が開始された日、運河の東のターミナルとしてのセテ港の礎石がルイ14世の許可を得てセットされ建設が始まった。 当時は小さい島だったセテは、ミディ運河の完成によつてワイン・トレードで大きい富を獲得。 その後の発展により「ラングドツクのヴェネチア」と呼ばれるようになる。 漁港は町のハートだが、貨物船、フェ リー、クルーザーで賑わう交通・観光・文化の中心の町となった。
 開港から300年以上続く「ボート槍試合Jousting Contest」は有名らしい。

 セテ島と砂州に囲まれたタウ湖は今回のクルーズで唯一、稍開けたopen sea、17kmの航行となる所。 今回は北風を真横から受けて船酔いする同乗者がでた。

 タウ湖は 長・幅=21 x 8 Km、 平均水深4.5m(航路部10m), 湖面面積7.0ha。 海水と連なるタウ湖は牡蠣、ムール貝などの養殖で有名。 1.3万トン/年、フランス消費の8.5% を賄う。
 
                 図14  航路、運河との接点

E) マルセイユ   図3、図6、図7 参照

 マルセイユは、古くよりフランスの海の玄関である。 フランス最大の港湾都市、パリに次ぐフランス第2の都市だ。 ここへはボートを途中下船してチャーターバスで向かった。
 ローヌ川河口からバレ湖(Etang de Berre)の湖岸沿いに行くと、折りしも湖面には白波が立っているのが見えた。 然し、ローヌ河口より続くローヌ・バレ運河は湖岸の南端沿いに平穏な水路を確保しているのをみて,湖水の中に運河を造る理由に納得する。 所が、この運河はマルセイユの市街の手前約5Kmの小さい峠の北側で終わっていた。 輸送形態の変化に対応しきれず市街地へのアクセスを断念したのであろう。

 頁の都合上、以下は簡単な紹介にとどめる。

 マルセイユ港には3つの顔がある。 入り口に石造りの望楼と要塞を構える歴史とロマンに満ちた旧港(約1300 x 330 m)が最初の顔とすれば、ここは今はプライベート?ヨットがびっしりのマリーナである。 第2は、その西に続く市街地の湾岸約5Kmが現代の港湾埠頭だ。 旧港から次第に西方向に発展していったことがわかる。 このうち西の約4割が新港であり、訪問時には、大型の観光クルーズ船が4隻着桟しているのが見られた。 然し、これ以上の発展スペースは無いようで、Port Authorityの資料(2011年Project)によれば、前2者を東港とする一方、ローヌ川河口のフォス港(Port de Fos)を西港と位置づけて、コンテナターミナル、LNG基地などの整備があげられているようで、これが「マルセイユ港の第3の顔」だと理解した。 阪神港のように広域港湾となっているようである。


◆ヨーロパの運河   図7 及び 図8 年表参照

 英国3,200Km、オランダ4,300Km(一説には8,000Km)、ベルギー1,500Km、フランス6,800Km。 英国では(1760〜1850頃)、フランスでは(1840〜)、夫々の産業革命によって運河は急速に発展した。 これらは2つの門扉を有するポンド・ロックと言われる形式で、1373年オランダにはじまる。 本稿のミディ運河は産業革命とは無関係に、それよりも100年近く前に建設されたことに特異性がある。


◆フランスの運河   図7 参照

 欧州最大規模。 可航全長8,500Km。 France Navigation Authority,(VNF)が管理。
 VNF 管理 ― 6,700Km (運河3,800Km、可航河川2,900Km)、 ダム 494、 ロツク 1,595、 水路橋 74、 貯水池 65、トンネル 35、 土地 800Km2
 このほかに地方が管理する河川 1(River Somme)、運河 1(Brittany Canal) がある。

 1,000 Ton 以上の商用ボートに適した範囲は以上の内、約20%。 ロック操作は電気機械化されていて基本的には、運河守り(ロックキーパー)による。
 勤務時間 ― 08.00〜17.30 (Summer Peakは〜19.00)、 昼食12.30〜13.30 All Lock Close.

 全体としては、フランスの内陸水路は、北部に集中 ― パリからベルギー、オランダ、更にドイツへと広がり、水路網が発達。 南部の運河には比較的少く、ビスケー湾から地中海に至るミディ運河と、更に地中海海岸内側 (Lateral canal) をローヌ川と繋がる次ぎの2つが主体。


◆南仏運河の概略仕様   図3、図6、図7 と 年表 参照

 南仏3運河
 @ ミディ運河 (Canal du Midi)  1694年完成。 全長240Km、1996年世界遺産(庭園的、建築的観点ほか)
     大西洋ビスケー湾に注ぐガロンヌ川河口近くのボルドーから「ガロンヌ川(79.4Km)+ガロンヌ運河(196.3Km)」を経て
     トゥルーズで連結し、地中海に繋がる 最高(サミット)= 190m
 A ローヌ・セテ運河 (Canal du Rhone a Sete)  全長 98 Km、 1 Lock
 B ガロンヌ河並行運河 (Canal laeral a la Garonne)  全長196.3Km、53 Lock、1838〜1856年完成
     財源の為、仏の産業革命の時代まで200年工事は実現せず。 原材料の輸送が重要になる。

 主要寸法ほかTechnical Data 
運河 全長 Km ロック個数 長 x 幅 m 水深 m 空間 m 船速 km/h 完成
@ ミディ運河 240 63
(91 chamber)
30 x 5.6 1.49 3.30 8 1694
A ローヌ・セテ運河
   St.Gilles〜Sete間
   St.Gilles〜Beaucaire間
98


1


80 x 5.2



2.20
1.80

5.0
4.10

10
10
 
B ガロンヌ河並行運河 196.3 53 40.5 x 6 1.80 1.80   1856
                                                空間=水面上余裕、 船速=上限
                         @にある運河トンネル L x B x 空間=161 x 6.45 x 5 m  Malpas tunnel 


◆ミディ運河の特徴   ローヌ・セテ運河なども含む  図9A, 9B 参照
運河橋 Aquaduct

 ミディ運河には、運河橋(Aquaduct)=45、Canal Bridge=6、LC=Libron crossing (?意味不明)=1、運河トンネル=1
 Aquaductは運河そのものが橋となって川・道路などを渡るもの、Canal Bridgeは運河の上を渡る道路橋である。 それらの中でベゼー(Beziers)市街に隣接した地区のAquaduct はオルブ川(Orb)をわたる石造りの重厚で気品のあるものとして有名。 そこから西に続いて7段ロックがある。

7段ロック(7 Locks of Fonserannes )

 フォンセランヌの7段ロック は、ミディ運河の主要部で1681年に建設された。
 資料には9段(長さ315m、Rise=21.50m)となっているものが多い。
 多分Orb川からも上られるのでこれを含んでの表現と思われる。
 兎に角現在の様子を図9A,B に示す。(Google Earth及び他の資料から図面化した)。 非常に特徴的なのは、

               図15  ベゼーの運河橋 Aquaduct
 @ロックが連続している事、  A平面形がタマゴ形をしている事
 建設当時の技術では、安定した高いロツクの建設限界Rise/lockからこの数となった。 またロックの構造安定性を増す手段として卵形を採用しているのが特徴。
    
        図16-1  フォンセランヌの7段ロック                        図16-2

Water Slope

 現在は使用されていない。 Rise=13.6 m、Slope= 5 °、 建設=1980〜83年、 使用=1984.5〜2001.4。 7段ロックの代替として建設されたが、油圧漏れなど技術的な問題で修理が多かったが、遂に使用断念。

運河両岸のトウパスと並木

 建設当時は航行する船はトウパスから馬で曳航していたのはどの運河も同じだし並木も多い。 然し、ここでは特にプラタナスの並木がほぼ全線に渡り茂っているのが特徴で両岸45,000本としるされている。 この落ち葉は水底で絨毯となって保水の効果を持つ。堤防の強化、防風林などの働きがある。


◆ルイ14世とミディ運河の建設    関係地図と年表参照

太陽王ルイ14世(1638〜1715) ― 
 フランスの最も輝いた時代として、フランス王朝の最後を飾る帝王。 彼こそ1600年間以上誰も望んで果たせなかったこのミディ運河を実現させた帝王である。 1643年、5才にして即位。 18才の時に宰相を置かず数人の大臣を任命するだけで親政を行うほどに政治につとめる。 その中の財務総監となって財政改革断行、国内産業育成、自国海運力による輸出振興、植民地確保などと活躍するのがコルベール(Jean-Baptiste Colbert.1619〜83)である。 早朝5時半から勤勉かつ貪欲に執務をこなしたと記されている。 

海運・造船・海軍の増強 ― 
 フランスの陸軍はヨーロッパ第1と言われたが、海軍は弱体だった。コルベールは海軍卿も兼任、軍港・工廠・船舶建造を進めている。反対に遇いながらも可なりの成果をあげた。その中のプロゼクトの一つが大西洋・地中海ショートカット(以下ミディ運河で代表させる)であったと考えられる。

ミディ運河建設の必要性と成功の理由 ―
 @経済メリット ― ショートカットによる経済メリット。 
     イベリヤ半島→ジブラルタル海峡→地中海を回航に比して
     約3,000Km、約1ヶ月の日数と通行料が節約になる。
 A通行料の支払 ― 当時ジブラルタルを押さえていた敵対国
     スペインへの通行料支払は、金額と共に政治的にも、
     ルイ14世、コルベール卿の政策信条から耐えがたかった、
     と考えられる。
 B海賊被害 ― 当時17Cは地中海南岸イスラム諸国の所謂
     バルバリア海賊の活躍か盛んであった。 
     回航する船舶は彼らの餌食であった。 
     遠くロンドンまでもこの海賊の被害をうけた。
 C産業発展など ― 地中海時代から大航海時代、地域発展
     などの時代変化、産業構造変化のながれ等。
     国としても、地方としても必要性がたかまっていた。
 
        図17  太陽王・ルイ14世
 D実行者と民活システム ― 国王の夢と熱意、 コルベールの官僚的サポート、 フランス独自の民活システム
     = コンセッション(concession)、 推進者リケ 及び部下の水理専門家、 ローマン・バス植民地後裔の女性達の水理
     問題への貢献 (具体的には要細部調査) など。


◆ミディ運河の工事
 リケ (Pierre-Paul Ri1uet.1609〜1680 )こそが、この困難な問題を解決した立役者。 工事の最大のポイントは分水嶺に、適当量の水を定常的に供給することである。 彼の直前にも、5つの工事案が提案されていた。 然し、川からポンプアップするなどの案を含めてどれも実現性のあるものではなかった。

リケの提案 ―
 然し、彼はこのプロゼクトの成功を確信していたといわれる。 彼はコルベールにプラン説得、遂にルイ14世の承認を得て、工事責任者となったのが1666年。 承認額3363万ルーブル。 仕様は仏軍関係によって作成さた。 最大のポイントである給水システム工事のリケの案は、従来の検討案とは全く異なり、「分水嶺の北・約20Km の山中の地点に1,500 x 600mの巨大な人工貯水池―面積0.67平方km、容量630万立方mの貯水池(Bassnde Sant Ferrol)を建設し導水する」ものであった。

リケの経歴 ―
 リケは近くのベゼーの生まれ。
 数学、科学に興味をもち、ラングドック地区の税金の徴収管理責任者、塩の税の責任者であ

         図18  コルベールに説明するリケ。  2)
り、ラングドック地域で可なりの資産と・地位(farmer-general)を有していたようで、専属の水理技術者も擁していた。
 この地域をくまなく調べ上げて部下の水理専門家のサポートを得て、この現場に最適の水理プランを練り上げ、成功を確信したものとおもわれる。 因みにこの貯水池工事は、当時ヨーロッパに於ける第2位の巨大工事だった(第1位はスペインのAlicante)。

難航する工事 ―
 然し、工事は予定通り進まず、難航。 遂に認可予算が底を突く。 リケはこのとき、私財を投じて工事を続航。 遂に娘のために準備した持参金も使い果たしたという。
 ここで浮かびあがるのが、先述のフランス独自の民活システム=コンセッションである。 これは、この時をさかのぼる約百年の1554年のローヌ川運河の請負工事にはじまる方式で、個人費用で運河を建設し、対価として通行料その他構築物の所有など一定の特権をあたえるものであ。 詳しくは判らないが、私財を投じてもそれに見合う見返りが期待できる方式である。 リケは完成を見ずになくなるが、息子が工事を引き継ぎ完成にこぎつけた。

ローマの水理技術 ―
 古代ローマは、ポンデュガール以外にも、独、スペイン、ドルコ、チュニジアなどに水道遺跡を残している。 古代都市ローマの優れた水道施設はよく知られているが、「紀元前312年の長さ16.5Kmのアッピア水道」に始まり、全11本、全長350Km、アクアダクトあり、地下水道あり、トンネルありと多彩。 又極めて精度が高く50Kmで17mを重力だけで流している。
 ところで、資料によると、ミディ運河の仕様決定に拘わったフランス軍土木関係者は要塞の専門家で水理の専門家ではなかった。 当時工事の土運びに雇われた土地の女性は、ローマン・バス・植民地の現場体験・知識に優れていることがわかり、次第に上級の仕事で工事の成功に貢献したと記されている。 具体的にどのような貢献をしたのか興味あるところである。
 


◆結び

ミディ運河の完成 ―
 この「Sea to Sea の完成」によってルイ14世は太陽王の名にふさわしい政治・経済・軍事・産業の振興目的と共に歴史的使命までも果たしたといえる。 一方、この運河の完成によって「ボルドーのワイン生産・トレード」は大いに繁栄し(年表G6)、リケの故郷ベゼーもうるおった。 これは彼自身が確信していた事に違いない。 19世紀になって、鉄道へのシフトによって運河の本来の機能はすたれたが、20世紀後半からレジャーの高まりを受けて新たな復活をとげている。 その果たして来た過程・実績・変遷は興味あるテーマである。

世界史の中のミディ運河 (年表参照) ―
 古代ローマは地中海周辺を支配下におくが(バックス・ロマーナ)、既に紀元前44年には、フランス全土(ガリヤ)を植民地化し、117年にはイングランドも支配下においた。 ライン川の駐屯地にもローマの軍船が到達している。 ジブラルタル回りの航海は当時からネックに違いなく、アウグストス、ネロの皇帝がミディ運河を構想したのも頷づける。
 ローマ以後、長らく地中海はヨーロッパ世界の中心である一方で、イスラムとキリスト教国の闘争の海でもあった(年表1〜5/L〜P)。 プレヴェザの戦い(1538)でイスラムの勝利、それに代ってレパントの戦(1571)に勝利した以降キリスト教国が地中海を支配するが、既に世界は大航海時代にうつりつつありフランスも世界と地中海のショートカットを強く意識したのに違いない。 ジブラルタルを押さえるものは世界を押さえるとまでいわれたジブラルタルの支配の変遷も重要な意味を持つ(年表C1〜9)。 海賊の活躍時期(A2〜9)

Sea to Seaの帝王の夢 ―
 歴史的な夢をかなえたルイ14世の「ミディ運河」の以前に、それを上回る偉業に挑戦した二人の帝王が思い出される。 それは、ライン川からマイン川を経て、分水嶺を越えてドナウ川に入り、北海と黒海を水路での航行を可能にする「ライン・マイン・ドナウ運河」の開通である。
 ヨーロッパ大陸の大河ライン川とドナウ川の分水嶺を越える所が問題の所だ。 かってカール大帝(742〜814年、フランク王国国王在位768〜814年)は、後僅かを残す所で撤退を余儀なくされた。 その一部は「カロリナの溝Fossa Carolona」としてドイツ・ニュールンベルグ近郊に残っている。
 筆者は2000年9月、「ライン・マイン・ドナウ運河」をヨットで通過した後、此処を訪問したことことがある。 極めてドラマチックな遺構である。 このカール大帝の約1,000年後、ルードイッヒ一世(1786〜1868年.ドイツ・バイエルン王国第2代国王、在位1825〜1848年)が狭い運河幅ながら完成にこぎつけた。 ミディ運河にまさるとも劣らぬドラマだとおもう。 この運河は更に1992年に近代的な巨大ロックと給水システムを備えて完成した。両者を現地に訪問した事と共に思い出される。中国大運河はSea to Sea とは若干異なるが、大陸縦断の歴史とロマンを秘めていることでは一級品だ。 南部の杭州から蘇州、更に揚子江を越えて揚州の部分は現地を訪問したが、以北の主要部分は未だ訪問していないので、夢はひろがる。
 運河の楽しみは尽きない。
                                                            (おわり)



                          主要参考文献

 1. 「フランスのミディ運河―領域を形成する庭園」 シリル・マリー(フランス建築工学科研究者・東大)
       岡田昌彰(近畿大・建築)訳 基礎工、2004.1 32巻1号、特集・世界遺産と基礎工。
 2. 「Impossible Engineering ―Technology and Territoriality on the Canal du Midi.」
       By Chanra Mukerji. 米カリフォルニア大教授、コミュニケーション&サイエンス学科、Princeton大プレス
 3. The Canal du Midi. A Cruiser’s Guide Adlard Coles Nautical. London. 船長用ガイドブック。
 4. 欧・運河地図類―
   4.1 Europe Waterwaya on 2 Maps. EUROMAPPING
   4.2.Map of The Inland Waterways of France. Imaray Laurie & Wilson Ltd.
 7. ボート会社パンフ類 Crown Blue Line. Discover The Inland Waterways of Europe, Frnce,etc
 8. 地図類――Michelin.(フランス,及びラングドック、ミディ・ピレネー、プロバンス)、この地域の道路地図類。
 9. 歴史関係図書類――地中海、海賊、地中海から世界の海へ、フランス王朝歴史など
   9.1「近代化はアジアの海から」NHK人間講座・川勝平太。 1999.7.1
   9.2「海上交易の世界と歴史」 http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/
   9.3「ローマ亡き後の地中海世界」塩野七生。新潮社 2009
10. hp 各種 Canal du Midi関連http://en.wikipedia.org/wiki/Canal_du_Midi リンク多数