日本船舶海洋工学会 関西支部 海友フォーラム K シ ニ ア
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海難事故について
  2009.10.31 間野正己 (小学校の同窓会報に投稿したもの)

 日本は海に囲まれています。国民の生活に船・海運は重要です。 又、冬の日本海・野島崎沖等の海象は厳しく海難事故が発生しています。 厳しい海象で船が壊れたり沈没すると、マスコミは欠陥船だと騒ぎ立てます。
 35年間造船所で船の構造設計に携わって来た私は、文集「みのむすび」に海難事故の解説を投稿して、皆様のご理解を得たいと思って筆を取りました。

1) 最近の海難 
 2008年1月に東京湾の入口でイージス艦「あたご」が漁船に衝突して漁船が沈没した事件は皆様の記憶に新しい事と思います。

 (図1) 「あたご」は大きくて漁船「清徳丸」は米粒程に小さい。 広い海面で米粒ほどの漁船に如何して衝突したのか? それも漁船の真ん中に当たっています。 私には不思議に思えました。 



 沈んだ漁船は残って浮いていた部分 (写真1) が11メートルで沈んだ部分が5.8メートルです。

 「あたご」の艦首は半径5ミリの鋭い形状をしています。 長さ165メートルほどの護衛艦の艦首の半径5ミリは、巾1センチの剃刀に換算すると半径4ミクロンの鋭さになります。

 見張りが不十分だったとか、自働操舵装置がどうだとか色々言われていますが、15ノット(1秒間に7.5メートル)で走っていた「清徳丸」が1秒早く現場を通過しておれば、船尾すれすれに「あたご」をかわす事が出来たと考えると、これは神の仕業ではないかと思われます。 不十分な見張りや自働操舵で航行していたのを弁護する気持はありません。 事件を客観的に観察すると、こうなると思っただけです。

 この様に、海難特に衝突事故には確率の非常に低い事件が多く有ります。 その昔、潜水艦「なだしお」が遊漁船「第一富士丸」に衝突した事件。 ハワイ沖で水産練習船「えひめ丸」がアメリカ潜水艦と衝突した事件。

 前者は横須賀沖で航路が輻輳する場所なので確率は少しは上がるかも知れませんが、ハワイ沖の広い海面で潜水艦が浮上してくる真上に何故練習船が居なければならなかったのか? 不思議に思えます。
2) 海難の統計
  一昨年1年間の海難事故を調べて見ました。 (図2) 一昨年は4369件の海難事故がありました。 その内、船同士の衝突事故は521件です。 一番多いのは遭難事故で1417件、次に乗り上げが895件、それから船同士の衝突521件、他の物への衝突499件、機関の損傷442件となっています。
 船種別の事故発生件数は貨物船が一番多く、漁船、引船・押船、タンカー、旅客船と続いています。 数から言うと漁船が多いのではないかと思ったのですが、貨物船が漁船のほぼ2倍事故を起こしています。 平成15年頃から毎年この程度の海難事故が発生しています。

 一昨年の事故ですが、明石海峡では3隻の船が接近してその内1隻がルール違反をして衝突し、そこへもう1隻が衝突した二重衝突事故がありました。 東日本では「あたご」と「清徳丸」の事故が有名でした。

 陸上交通関係の事故は100万件ありました。 空中衝突事故は、その昔雫石上空で全日空機と自衛隊機との衝突以来皆無だと思います。 陸上の交通機関は線上で運転されています。 船は面上です。 そして飛行機は空間です。 自由度が大きくなるに従って衝突事故の起きる確率は減ってきます。

3) 大きな海難事故
  大きい海難事故で有名なのは、先ずタイタニック号です。 1912年4月14日処女航海で英国から米国へ向かっていた本船は氷山に衝突して沈没、1031名の方が亡くなられました。

 日本では、1954年9月26日台風15号による暴風のために青函連絡船洞爺丸が転覆・沈没して1155名が亡くなっています。 岡山の近くでは、1955年5月11日宇高連絡船紫雲丸が貨車運搬船第3宇高丸と衝突・沈没して166名の方が亡くなられています。 この中には修学旅行の松江市の児童が多く含まれていて、松江市にはその慰霊碑が建てられています。 紫雲丸はこの後2度、合計3度遭難しています。 紫雲丸ではなく、死運丸と言われましたが、私は三転び四起きで縁起が良い船だと思っています。 私が入社する前の昭和25年に播磨造船所で建造された船です。

 他にマスコミで報じられて周知の海難事故としては、昭和60年代では1986年6月17日三陸沖で沈没した調査船「へりおす」、1988年7月23日「なだしお」と「第一富士丸」の衝突事故があります。 その前の昭和50年代には、1980年12月30日野島崎沖で5万トンの鉱石運搬船「尾道丸」が沈んでいます。 波によって船主部分が折れて沈み、残った部分は暫く浮いていましたが、日本への曳航途中沈んでしまいました。 この船の事故調査に大学の先生などが出掛けられましたが、充分な調査が出来ない内に沈没したようです。 証拠物件が沈んでしまうと手掛かりが無くなり、あれこれ云っても説得力が有りません。

 昭和40年代には、1965年10月7日にマリアナ諸島で漁船7隻が沈んでいます。 乗組員209人が亡くなりました。 1969年1月4日野島崎沖で5万トンの鉱石運搬船「ボリバー丸」が沈没しました。 私が居た会社IHIの東京工場で建造した船です。 私は相生に居たのですが、初出の日に会社へ行ったら「ボリバー丸が沈んだ。」と言うので吃驚しました。 5万トンの鉱石運搬船が鉱石を満載して帰国途中の事故でした。 その頃までは大型船が沈むとは思っても居ませんでした。 然し沈んでみると、成る程、船は本来沈むものだと云う気がして来ました。 翌年の1970年2月9日には、同程度の鉱石運搬船「カルフォルニア丸」が同じような場所・海象で沈没しています。

 非常に運の悪い遭難事故は、1952年9月24日海底火山噴火に巻き込まれた海上保安庁の測量船「第五海洋丸」です。 海底火山の明神礁の調査中に遭難したものです。 乗船中の31名全員が亡くなられました。

 1960年代には、20万トンタンカーの爆発事故が相継ぎました。 荷揚げして積荷地へ向かう途中に油タンクの清掃をします。 タンク内に残っていた油分が蒸発して空気と混ざって爆発しやすい気体が出来ます。 それに何かで(静電気?)着火すると爆発します。 この事故でタンクの清掃時には、タンク中に酸素が無い状態に保つようになりました。 窒素や炭酸ガス(機関の排気ガス)の不活性ガスをタンク中に送入しました。

4) 海難概論
  この様な海難事故は何故起きるのでしょうか? 衝突の話は別にして、一番多い遭難事故は、嵐の中で船が折れて沈む様な事故です。 尾道丸、ボリバー丸、カリフォルニア丸、それから1997年1月7日に日本海で折れて船首部分は福井県三国町の海岸に漂着しましたが、タンク部分と機関室、船尾部は沈んだナホトカ号等です。

 船は壊れないように設計して建造されますが、どんな波が来ても大丈夫と言う訳にはいきません。 大きい波が来れば、やられます。 大きな波の所へ行かなければ大丈夫です。 壊れて沈むのは鉱石運搬船です。 タンカーは壊れても沈まない。 積荷の油の比重は0.96です。 タンカーが油を満載した状態は浮き袋を抱えて航海している様なものです。 一方鉱石運搬船は比重が2〜3の鉱石を積んでいます。 船が壊れて海水が入って来れば沈みます。

 日本船は手入れが悪い。 外国船特にギリシャ船は手入れが良い。 船は20年が寿命だと言われています。 然し手入れの良い船は20年経っても新品と変わらない程です。 私が訪船したギリシャの鉱石運搬船は船齢23年でしたがピカピカでした。 正に妙齢23歳でした。 日本船は乗組員の数が少ないので、全然手入れをしません。 甲板上に錆が山を成していました。 錆だらけの船は、嵐の中で大きな力を受けると壊れ易いと思います。

 日本郵船に居る友人に「ジャパンラインの船は、よく壊れるし沈む船もあるのに、日本郵船の船は大丈夫なのは何故?」と聞いた事が有ります。 彼は「うちの船長は臆病で嵐が来たら逃げ回っている。」と言いました。 金持ち郵船は無理をして、嵐を突き切って航海する必要は無いのでしょう。 一方ジャパンラインは予定通り帰港するのが会社の方針だった様で、嵐の中でも突き切って航海するので、事故が多いのではないかと思います。

 私は1998年2月に1ヶ月ウラジオストックで過ごしました。 海が凍る寒さです。 ナホトカ号の船長は寒さに耐えている人々に一日でも早く燃料を届けたいと思って荒れた日本海を航行したのではないかと思われます。

 乗組員が自分の船を良く見ていると安心です。 先程のピカピカのギリシャ船の船長は暇があると作業服を着て、船の隅々まで見て歩いていました。
       5万トンの鉱石運搬船が黒海で鉄鉱石を満載して喜望峰を回って帰る事になっていました。 鉱石運搬船は中央部に鉱石倉があり、その両側にタンクがあります。 タンクの内側には鉱石倉を隔てる隔壁があり、外側は外板になっています。 隔壁と外板は支柱で結合されています。

 本船の乗組員がタンクの中を調べていたら、この支柱が腐食していて隙間から向うの光が見えた。 この状態で帰航しても良いか? との連絡があった。 私はこの支柱が壊れて外板と船底が大変形をした事故を知っていたので、(図3) 直ぐに技術者を黒海へ派遣して、応急修理をした上で帰航するようにしました。 1968年8月8日のインド洋で潜水艦に衝突されて外板に大きな穴が開いて、船体が傾いたと言われた陽邦丸の事故も潜水艦の所為ではなくて、このタンク内の支柱が腐食して潰れたのが原因だと、海難審判で明らかになったようです。

 タンカーは座礁したり衝突して外板が破れると積荷の油が流出します。 1967年から2002年までの世界の重大油流出事故が 表1 に示されています。 有名なのはトリーキャニオンです。 この船は英国で座礁して油を垂れ流した。 アコモカディツもフランスのブルターニュ沖で座礁して油を流した。

 それからエクソンヴァルディツがアラスカで座礁して大きな海洋汚染を生じた。 この事故でエクソンは大損害を被った。 最近ではエリカとプレステージがフランスとスペインの海岸を汚染した。 エリカが油を流した少し後に、私は偶々フランスのブルターニュの沖のベレイレと言う島を訪ねました。 住民総出で清掃したそうですが、まだ油の痕が残っていました。
 表1 を見ますと、エクソンヴァルディツは船は大きかったが流出した油はそれ程でもなかった。 3万5千トンであれだけ大騒ぎになった。 汚染された海岸は1600キロメートル、大阪から青森までの距離です。 死んだ鳥が3万羽、死んだ鷲が138羽、死んだ獺が980頭。 エクソンが負担した金額が1.28兆米ドル(128兆円)です。

 エクソンヴァルディツの事故のお陰で、タンカーは座礁しても衝突しても油を垂れ流すな! と言う世界の世論が起こりました。 その為にタンカーの船側と船底は二重構造にする事になりました。 船体重量は2割り増し、船の原価も2割増しになりました。 然し、船価は殆ど上がらず原価2割り増しは結局造船所の負担になってしまいました。 船価は力関係で決まるので、造船所は何時も泣かされています。

 この二重構造に対して最初は日本の造船所は反対しましたが、結局世界の趨勢に流されてしまいました。 私は座礁しても衝突しても油が流出しない様にするよりも、座礁・衝突しない様にするのが先決だと思っています。 こういった目で今の世の中を見ると、何かあったらその下流で手当てをしようとしています。 上流に遡って手当てをすれば、楽に完全な対策が出来ます。 根本を忘れて枝葉末節に走っているようです。

 20世紀後半の造船年表 (図4) を見ますと、ボリバー丸とカリフォルニア丸が夫々1969年と70年に沈んでいます。 次は尾道丸の1980年です。 1990年には世界中で12隻の大型撒積貨物船が行方不明になっています。 多分沈んだのでしょう。 それからナホトカ号の沈没が1997年です。 この様に略10年置きに重大海難事故が発生しています。

 私の独断と偏見ですが、これは船長さんの所為だと思っています。 重大海難事故が発生すると、船長さんも怖がって嵐を避けて航行するようになる。 10年も経つと嵐を怖がった船長さんは船を降りて、怖さ知らずの新しい船長さんになって、嵐の中に突っ込んでやられてしまう。 先程の日本郵船の船は壊れないし沈まないと言うお話に通じていると思います。


 この年表には船が段々と大きくなって来た様子が示されています。 私が入社した1952年頃には、2万トンのタンカーが一番大きかった。 それが3万トン(スーパータンカー)、5万トン(ジャイアントタンカー)、10万トン(マンモスタンカー)・・・・・と 大きくなって50万トンタンカーまで建造されました。 当時は100万トンタンカーの試設計もなされ、建造ドック(三菱香焼、IHI知多)も建設されました。

 この年表にある船は、その当時の世界最大の船です。 ユニヴァースアポロは呉のNBC造船所建造、バチラスはフランスのアトランチック造船所建造、シーワイズジャイアントは住友追浜造船所建造後日本鋼管津造船所で大型化工事を行なっています。 その他は総てIHI建造です。 IHIで夫々の時代の世界最大の船を造った時は、社外の専門家も入れて充分検討しました。 船が大型になる時には、船体構造が一番重要です。 私は船体構造設計者として夫々の検討会に参加できたのは幸運でした。 これらの船は無事に就航し一生を終えています。

 一般の船は、夫々の時代の一般的な技術で設計・建造されました。 2万トンの技術で3万トンを、そして3万トンの技術で5万トンをと言うように、一歩一歩大型化していきました。 それでも小さい船の技術で大きい船を造ると、どこかに無理が生じます。 その様な船で嵐の中を走ると壊れる確率が高くなります。 その結果がボリバー丸、カリフォルニア丸の沈没だったと思っています。

 20世紀後半の最初は、船に合理化が求められました。 品物を安く早く運ぶ事です。 当時は石油が安かった。 原油が1バレル1.6米ドルでした。安い油を使って早く走って効率を上げました。 1973年のオイルショックで油が高騰して、省エネルギ時代になりました。 更にエクソンヴァルディツの油流出後は、環境に優しい船が要求され、二重構造のタンカーが出現しました。

 ついでに、この年表で韓国の造船業を見てみますと、彼等はオイルショック後に台頭してきた。 今では生産量は世界一になっていますが、船が大型化して種々の問題が生じた頃の実情を知らない。 日本の造船業界は自分達の経験を彼等に伝えるべきだと、私は思っています。

5) 海難審判
  次に海難審判の話をします。 1968年に相生で建造したジャパンエースと言うコンテナ船が就航後10年目に、野島崎沖の荒波に右舷船首部を叩かれて、外板に亀裂が発生して1番船倉が水浸しになりました。 亀裂は水平に10メートル進み船首隔壁に当たって下方に6メートル進んで止まっていました。 本船は初期のコンテナ船で750個のコンテナを積んで22ノットで太平洋航路を走っていました。 本船は私が相生の設計に居た時に「間野」とサインした図面で建造したので、海難審判庁に参考人として呼び出されました。 海難審判では事故船の乗組員は受審人、事故に関係した人は参考人、検事に相当するのが審判官だと言われています。 最初に「私は嘘を言いません。」との宣誓を行なって審判が始まりました。 丁度この時の審判官は私の高校の先輩の福森さんでした。

 ボリバー丸、カリフォルニア丸、尾道丸などは沈没して証拠物件が消えてしまった。 ジャパンエースは沈まずに帰って来たので、充分調査が出来ました。
 割れた外板の破面を調べてクラックの起点を突き止めました。 起点には貝殻状の模様があり、小さな傷が繰り返し応力によって少しずつ成長して、ある大きさになった時に大きな力を受けて両側に亀裂が走ったことが判りました。 船には小さい傷は沢山有ります。 普通の大きさの力ではその傷はそのままです。 大きい力が加わると傷が少しずつ成長します。

 次に、水槽に波を起こして模型船を走らせて波の力を計測しました。 船の速力を下げると船に加わる力が小さくなります。 損傷時に本船は12ノットで航行していた。 5ノット程度に減速して航行すれば損傷なしで帰れたとの結論を得ました。
 この調査結果を、審判庁に提出したところ、福森さんは「今後の参考になる。」と大変喜んでくれました。 海難審判庁の目的は、罪人を作るのではなくて、事故の原因を明らかにして今後の参考にする事でした。

6) 海難の教訓

  海難の度に船の運航・設計に色々と注文が出て来ます。 19世紀の終わり頃の船は、船内に仕切りが無くて、外板に穴が開けば水が入って来て沈む事になっていた。 それで仕切り(隔壁)を設けるようになった。
   
 タイタニックは3区画連続して浸水しても沈まない設計になっていた。 それが5区画浸水したので沈没した。

 洞爺丸では、車両甲板の後に扉が無かった。 そこから海水が流入して、事故につながった。 その後は扉を設ける様になった。

 この様に海難の度に対策が施されますが、海難は無くなりません。 その一つの理由は、次々と新しいタイプの船が出来てくる事です。 コンテナ船の事故が案外少ないのは不思議です。

 図5 に19世紀の終わり頃からの世界の損失隻数が示されていますが、増減はあるにしても、大きな目で見ると着実に減少しています。 海難の教訓が生かされている証だと思います。