日本船舶海洋工学会 関西支部 一 般 情 報 K シ ニ ア
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2018年 関西シニア海事研究会 (Kシニア) 総会・懇親会 報告

2018年8月24日 関西シニア海事研究会(Kシニア)幹事会
文責 杉山和雄


  「Kシニア」総会・懇親会の写真をご覧下さい。   行事写真 (10枚)   その他の写真 (24枚)


日  時 : 2018年7月7日(土) 13:00~17:00
会  場 : 神戸クリスタルタワー 3F  クリスタルホール  (神戸市 中央区 東川崎 1丁目)
参加費 : \1,500 (お茶、缶ビール、おつまみ等に充当)

出席者 : 23名、 来賓: 藤久保昌彦 関西支部長、  (以下に出席者名 敬称略)
井澤雄幸 大柴隆士 岡田博雄 小野靖彦 鴨井紀之 河合敏雄 木村一馬 黒井昌明 小林幹弘 塩田浩平
城野隆史 菅野正彦 杉山和雄 富田愼一 内藤 林 仁科憲二 藤久保昌彦 宝田雄次 増本 敞 三好 晃
村上 馨 濱田孝一 安中正夫



プログラム

プログラム1  関西シニア海事研究会 (Kシニア) 総会   ( 司会 : 宝田雄次 )

 ● 来賓挨拶   関西支部長  藤久保昌彦 殿
 今日は生憎の天気で参加者が少し少な目ですが、支部長を拝命して1年が立ちましたがその間学会では色んな行事等がありましたのですこし紹介しますと、去年12月には110周年の一環として関西が中心になって海底鉱物資源に関する国際フォーラムを開催しましたし、ついこの前の春季講演会ではふね遺産について報告をして頂きました。又私自身印象に残ったのは夏の学校として若手中心の勉強会があり、私の担当でしたので高野山大学を利用し宿坊に宿泊して2泊3日で開催しました。Kシニアでも高野山を利用されても良いのではと思います。関西支部には商議員制度というのがありまして一旦取りやめる方向でしたが、いろんな世代のひとの意見を頂くことは大事なことですので存続することになりました。Kシニアの方にも協力頂けたらと思っております。
 又以前にも申し上げましたが、学生をはじめとするジュニアの方々とシニアの皆さんが交流して頂いて船や造船の良さを伝えて頂くことが大切だと考えていまして、12月開催の海事産業説明会にシニアの方々に気楽に来て頂いて、ポスターセッション等もございますので是非学生等の若手と交流して頂ければと思っています。
 課題と思っていますのは入会者や造船関係への就職等も減りつつあることで、他産業からも若手にアプローチが多いときでもありますので、若い人たちに船や造船に魅力を感じて頂けるようにすることが学会としても必要なことと考えており、例えばモニタリングやビッグデータ等の新しい進んだ技術をどんどん取り入れて、将来に夢のある産業にしていくことが必要であろうと思っていますので、こんな意味からもシニアの方々にもお手伝い頂けたら良いのではと考えています。どうぞ今後とも宜しくお願い致します。


 ● 2017年度 活動報告 と 2018年度 事業計画   会長 杉山和雄 
 このところの大雨で交通機関にも影響が出ており、この会の開催もどうするか考えたのですが、なんとか開催できそうに思われましたので、開催することに致しました。残念ながら参加を取りやめられた方や未だ来られてない方が十数名おられますが、ゆったりとこの会を楽しんで頂きたいと思います。
 さてワールドカップで日本チームが奮闘致しましたので1次リーグ最終戦のポーランド戦ではテレビの視聴率が50%を超えるという大騒ぎになりましたが、このポーランドを2度仕事で訪問した経験があり、少しお話することに致しますが、大変美人の多い国だったとの印象が残っています。
 そのポーランドは10世紀の頃に国ができたとされており大変栄えた国だったようですが、18世紀の頃には周りの国から攻め込まれ分割統治等で国が無くなったこともあります。しかし自分たちの言語ポーランド語と高水準の文化を持っていたことで民族がまとまり、粘り強く祖国回復に努めたことが認められ、第2次大戦後ドイツ降伏でポーランドの国が回復し、ヤルタ会談でその国の形が決められたそうです。ただこの時ソ連は東部の穀倉地帯を自国の領土とし、西隣のドイツ領の一部ををポーランドに編入したため、国が西方にずらされることになったようです。
 さて最初のポーランド訪問は1976年12月、国の西の端のステッチェン(Szczecin)にありますPolish Steamshipという船会社でのスペックネゴで、雪の積もったクリスマス前のかってドイツ領であった町に2週間滞在しました。共産圏の時代でしたが、人々は交渉相手を含めて気さくで明るい人が多く、とても共産主義の国とは思えませんでした。
 2回目は1994年7月で当時事業部長を拝命してすぐ欧州の造船所を見てくるようにとの命を受け、当時日本から多くの人が見学に訪れたデンマークのオーデンセ造船所( Odense steel Shipyard )を社長と2人で訪問、次はドイツのパッぺンブルグにある客船中心のマイヤー造船所(Meyer Werft)で、当初三菱の宮崎さんが同行して下さる予定でしたが、直前に持病の悪化でダメになり一人で参りました。両社とも先方は社長はじめ主だった役職の方々に応対して頂き、何でも丁寧に教えて頂きました。 引き続き日立造船の機関関係のご紹介でデンマークのコペンハーゲンにあったB&W造船所とドイツのキールのあるHDW造船所(Howaldtwerke Deutsche Werft)を訪問し、技術者レベルの互いの会社の状況について話合いました。
 そのあとに ポーランドの造船所を買うかもしれないので2社を調査して来るようにとの話で、かってワレサ氏がいたグダンスク造船所と一回目に訪問したステッチェンにある、川に面したステッチェン造船所の2社を商社の方と訪問しましたが、両社とも大変あたたかく対応して頂きました。結局造船所は買わなかったのですが、人々の教育程度も日本よりはるかに高い文化国家であり、歴史的にも古い町並みの多いポーランドは是非再訪したい国の一つであります。
 それでは本会の2017年度の活動報告ですが、約490人の会員に対し9名の幹事で運営していまして、昨年度総会は7月に40名の参加を得て開催致しました。5つのグループ活動は題材の検討中である翻訳グループを除いた残り4グループはそれぞれ活発に活動されています。会計報告ですが収入は総会参加費と学会からの配分金で、支出は総会費用、総会案内葉書代、幹事会会議室費用等で、ほぼ予算通りの消化となっております。
 次に2018年度の活動計画はほぼ例年通りと致しております。また予算は収入・支出とも前年とほぼ同じ構成と配分と致しております。是非より多くの方々に各活動に参加して頂きますようお願い致しまして私の報告を終わらせて頂きます。

 ● Kシニア運営規約改正の件   宝田雄次 
 添付しています資料に示していますように、規約の6番目の項目で会員資格が「60歳以上」となっていますのを、最近の実情では定年や年金開始が65歳になってきていますし、学会の  シニア本会の会員資格も65歳に変更されましたので、本会会員資格を「65歳以上」に改正しようというものです。

 本件に関して特にご意見も無いようですので提案されました案に改正することに決しました。


 ● グループ活動報告
   海友フォーラム (城野隆史)
 この間 「咸臨」に出ました、三宮さんの訃報に接してなつかしく思いましたので、三宮さん等が中心になって設立されました「旧Kシニア」について思い返してみようということにしました。
 1997年に代表幹事が三宮さんで各自飲み物とつまみを持参して阪大の会議室に集まり、テーマを決めて話合いをする会として発足し、海事関係者の集まりですが話題は広く多岐に亘るものが取り上げられております。大変興味深いものが沢山ございますので、是非ホームページの「旧Kシニア」の所を見て頂きたく思います。2006年に姫野先生のご尽力で現Kシニアの形になりました時、その内部組織の一つとして「海友フォーラム」に名前を変えて会長 岡本 洋さんで再発足致しまして今日に至っています。
 現在は会員83名で年3回の懇親会を開催し幅広い話題で活動を続けていますが、
  昨年度は9月に第33回懇親会として「潜水艦」そして「マイクロナノバルブ事業の企業顛末」の演題で佐野正さんにご講演頂き参加者で討議致しました。
  本年1月には第34回として島本幸次郎さんに「フィンランドを訪ねて」オルキルオト島の使用済み核燃料 と題して、
  4月には第35回として小林幹弘さんの「日本技術士会(近畿本部)中国研究会活動の一端紹介」と、
  「日本語と漢字」で加藤健二にそれぞれご講演頂いたあと参加者で質疑応答を致しました。

  教育支援グループ (岡田博雄)
   従来通り9名のメンバーで幼稚園から高校までの生徒さんに科学実験授業や船と海に関する話をしています。
 昨年度は大阪市教育委員会の実施授業として、11月に福島区の小学5年生2クラスと12月に東住吉区の小学5年生3クラスにメンバーの定兼さんに理科の特別授業を実施して頂きました。実験のほか船の写真数種類見て頂いて説明しております。
 又メンバーの間野さんが昨年11月愛知大学に自作の「上海丸」の模型を教材として寄贈されました。
 本年度も大阪市教育委員会から理科の授業の依頼が来ていたのですが講師の都合で取りやめとしました。来年度以降もこの活動を継続して行く予定です。

  ゴルフグループ (仁科憲二)
   年2回 春と秋に開催してきておりまして、昨年9月に第22回を関西クラシックで8名の参加で開催致しました。この時はいつも参加下さる岡山地区からの参加がなかったことで、いつもよりすこし少ない参加者での開催となりました。
 今年春のコンペは幹事が病気治療中となりましたので、中止と致しました。この秋も引き続き中止とさせて頂き、来年以降は幹事交代も含めて会員の皆様にはメールにてお知らせ致しますのでよろしくお願い致します。
  保存グループ (黒井昌明)
   関西支部の造船資料保存委員会として内藤委員長を含めて30名で活動しております。神戸大学深江地区で作業室と倉庫を使用させて頂いております。ホームページの「デジタル造船資料館」がこの2月28日に装いも新たに更新致しましたので大変見やすくなったと思います。又作業室に新しくスキャン装置を2台設置しまして、既に廃刊になりました雑誌「船舶」501冊や「船の科学」638冊を全巻 皆様に見て頂けるようにスキャン作業を進めております。是非進歩した新しい「デジタル造船資料館」に多くの皆さまにアクセスして頂き、ご利用頂きますようお願い申し上げます。


 ● ふね遺産の報告   内藤 林
 今年第2回目のふね遺産の認定が以下の通り決まりました。 7月20日に授与式が行われます。

1. 氷川丸:昭和初期の技術を今に伝える現存貨客船
2. 海王丸:現存する最古の日本建造の練習帆船
3. 徳島藩御召鯨船「千山丸」:江戸時代建造の現存する唯一の大名の船
4. コンクリート貨物船「第1武智丸」、「第2武智丸」:わが国初の自航式コンクリート船
5. 川崎造船第1ドック:難工事を克服した日本人技術者による神戸港初のドライドック
6. 大日本海志編纂資料:江戸・明治期の造船、海事に関する歴史資料
7. 栗崎八幡神社の船絵馬:弁財船の構造や航行の模様を精緻に描いた船絵馬の秀作
8. 練習船「霧島丸」の遭難碑:練習船の革新を促した海難事故を今に伝える

 又学会春季講演会第4回シニアセッションで10篇の論文が発表されました。 これ等はデジタル造船資料館に保存することにしていますので、いつでもご覧頂だけます。


● 私のシニアライフ
「パタゴニア周遊
  (副題)マゼラン海峡を発見した男達」
                 
(木村一馬)
 私の会社生活は日立造船・向島工場で、新造船の艤装工事担当からスタートしました。担当したドイツ船主向け新造船に、保証技師として3か月乗船する機会を得ました。船は工場を出港してフィリピンのミンダナオ島・ブツアン港で木材を満載し、フランスのナントに向かいました。当時は第3次中東戦争の影響で、まだスエズ運河が閉鎖されており、船はアフリカの南端・喜望峰周りのコースをたどりました。1973年4月中旬のことです。喜望峰は晴天、突端の岩にぶつかる白波と後ろに続く緑の大地、「この一端からあの広いアフリカが始まっているのだ!」と、いたく感動したことを思い出します。同時に、「南米の突端はどうなんだろう? いつか機会があれば訪れてみたいものだ」と思ったものでした。
 時は移って定年後、その気になってパタゴニア旅行を申し込みましたが、催行人員に達しなくて2度ほど“待った”をかけられました。友達を誘っても「パタゴニアってどこにある?」。当時は、パタゴニアはまだポピュラーではなかった。

 写真を趣味にしていまして、旅行時にはたくさんの写真を撮りました。最近になって、パタゴニア旅行時のポジフィルムを整理しているうちに、マゼラン探検隊について調べてみたい点が2,3出てまいりました。
 ①海峡がそこにあるかどうかも不確かな時代に、マゼランはどうして南米の突端まで行く気に
   なったのか。
 ②小学生の頃、最初に世界一周を成し遂げたのはマゼランだと教えられていたが、マゼラン
   はフィリッピンで原住民との戦いで死んだ。では、最初の世界一周を完遂したのは誰か。
 ③当時、スペインとポルトガルは同時期に海外進出を開始したが、南北アメリカにはスペイン
   領が殆どで、ポルトガル領はブラジルだけというのはどうしてか。

 現在はかなりの事をインターネットで調べることができます。調べている内に、自分もマゼラン隊の一員になったような気分で、波乱にとんだ航海を体験したような気分になったものです。
本タイトルは、
 ・一部として「パタゴニア周遊」として私の旅行時の写真を紹介し、パタゴニアの空気に
  触れていただく。
 ・二部では「マゼラン海峡を発見した男達」として、マゼラン隊の世界一周の航跡を辿って
  みたいと編集いたしました。
しばらくお付き合いください。


「パタゴニア周遊」について。

 ・南米大陸で、アルゼンチンを東西に流れるコロラド川以南(南緯40度)からフエゴ島の突端(南緯55度)に至る、チリおよびアルゼンチンにまたがる地を「パタゴニア」と呼ばれている。チリ領内にあるモンテ・ベルデ遺跡では凡そ14,000年前に人が住んでいたことが証明されている。

 ・パタゴニアという地名の由来について、マゼラン隊がこの地で停泊していた頃、大男の原住民を発見、「背の高いことと言ったら、われわれは彼の腰までしか届かなかった」。大男を見たマゼランは、その足の大きいのに驚き、思わず「パタゴン!」と叫んだ。パタはスペイン語で「足」、ゴンは増大語を表し、これが“大足人の国”(パタゴニア)の由来だと言われている。

 ・旅行には2007年11月末、15日間のツアーに参加した。KIXからバンクーバ~トロント~サンチャゴと乗り継いでサンチャゴに到着。サンチャゴで一泊後、パタゴニアの南の玄関口プンタ・アレナスへは、更に3.5時間の飛行。目の前にマゼラン海峡が拡がる。風が強くて埃っぽい。プンタ・アレナスは「風の大地」と訳されている。夏季の平均気温は7℃~15℃。

 ・パイネ国立公園内のロッジ(テント)で3泊。ここを起点にそれぞれ6㎞、20㎞、22㎞のトレッキングに参加。出かけの気象予報掲示板には、天候:曇時々晴、気温:6~13℃、風速:100~120㎞/h。道中の木々は強風のため、L字型に曲がって成長している。

 ・“パンパ”、走れども走れども平地が続く。パンパはケチュア語で、標高150㍍以下の起伏の少ない平原の意。氷河期には凡そ300㍍の氷河で覆われていた。

 ・ペリトモレノ氷河。約250㎢の広さ、氷の一番厚い場所で700㍍。氷河の終端までの距離は約30㎞。氷河上のトレッキングが人気。

 ・カラファテ~エルチャルテン。10㎞及び20㎞のトレッキングに参加。名峰フィッツ・ロイの真っ赤に染まった写真をゲット!

 ・本旅行を振り返って・・・厳しい自然環境の中で、何とか予定のトレッキングに落伍することなく参加できた。あの頃は、まだまだ元気だったのだと感慨深く想いだしている。

 ・旅行に先立って決意表明していた、「旅行中は英語を使わない、スペイン語で押し通す」と。日頃スペイン語を勉強しているが、実生活の中で使うことが殆どない。自分のスペイン語がどの程度通用するか試してみる絶好のチャンスである。プンタ・アレナスから付いた現地ガイドは、私のたどたどしいスペイン語に根気よく付き合ってくれた。


「マゼラン海峡を発見した男達」

 ・マゼラン隊の新航路開拓は、東南アジア・香料諸島の資源(香辛料)争奪にあった。1453年に東ローマ帝国が滅亡し、オスマン帝国が地中海貿易を掌握して高い関税が課された。一方、ポルトガル、スペインでは中央集権化が進み、王室が新航路開拓を奨励した。

 ・十字軍遠征で、腐りかけた肉にコショウをふりかけると臭みが消えることを知った西欧諸国では、コショウは同じ重さの銀と取引されるほど高価な商品、食生活に欠かせぬものとなっていた。

 ・スペインとポルトガルの両国で、1494年ローマ教皇アレハンドロ6世により、トルデシリャス条約が結ばれた。南・北の極点を結ぶ線で、セネガルの突端・ヴェルデ岬の西方100レグア(約560㎞)を通過するラインの西側で発見される陸地はスペイン国王に、東側はポルトガル国王に所属することが決められた(1529年、この線を370レグアまで拡張、サラゴサ条約)。この条約により、マゼランが南米突端を回る航路を採らねばならなかったこと、南北アメリカ大陸でブラジルだけがポルトガル領だったことが理解できた。
 
 ・フェルディナンド・マゼランはポルトガルの小貴族の出身。25歳で初航海を経験し、マラッカ遠征に参加してマラッカのことを熟知していた。モロッコのアザムール攻略に参加したが、捕獲品管理将校として、横流しで私腹を肥やしたとあらぬ疑いをかけられた。身の潔白と西廻りのモルッカ島遠征を進言するためポルトガル・マヌエル王に謁見するが、冷たくあしらわれ、ポルトガルを去りスペインに至る。
     ・マゼラン船団。1519年9月20日、234名を乗せてサンルーカル・デ・バラメーダ(カディス市)を出港。マゼラン提督のもと5隻の船は、サンチアゴ号、サン・アントニオ号、コンセプシオン号、トリニダード号、ビクトリア号。

 ・搭載品は食糧としてたっぷり2年分。ビスコット(主食)100トン、塩漬け牛肉30トン、塩漬け豚肉25トン、エジプト豆5トン、その他(塩漬け魚、干し豆、干しブドウ、等々)。ワイン(1パイント/人/日)。香料との交易品として銅10トン、水銀1トン、ドイツ製の小刀4,800本、鏡1,000個、櫛1,500個、釣り針1万本、等々。武器として大砲71門、火縄銃50挺、槍1,000本、兜と甲冑100組、大弓60張、等。

 ・出航~海峡の発見~南の海。サンルーカル港出航後、南米大陸の沿岸ぞいに、川があれば“南の海”に通ずる水路ではないかと遡上を繰り返した。1519年3月末から約5か月間、厳しい寒さ・逆風のためサン・フリアン湾(南緯49度)に停泊する。この間に、4人の船長による提督暗殺の陰謀が企てられたが事前に発覚し、4人は刺殺/追放された。暴風雨によりサンチャゴ号が座礁して破損。1520年10月21日、南緯52度の地点で、海が陸地の中に入り込んでいる入口に到着。3隻の船に命じて“南の海”に通じる水路があるかどうかを探索させる。3隻のうちサン・アントニオ号が無断で進路を変えて本国に引き返した。この時点で船団は3隻になった。

 ・1520年11月28日、“南の海”に出る。南の海は波静か、Mar Pacifico(太平洋)と命名す。

 ・太平洋を行く。「海峡を抜け出てから3ヵ月と20日の間、新鮮な食べ物は何一つ口にしなかった」。無寄港で生野菜が不足、ビスコットは粉屑状態、鼠の小便の臭いが鼻につく、鼠は高価で取引された、隊員の歯茎が歯まで腫れてきてものが食べられない、壊血病で死ぬ者が生じた。

 ・1521年4月8日、セブ島に到着、セブ王と友好関係を結び、交易・布教活動を開始。セブ王はじめ1,200人以上が洗礼を受け、同時にセブ島周辺の王へ改宗と服従を強要した。セブ島の隣のマクタン島のラプラプ王が従わないので、60名の兵を乗せてマクタン島に乗り込む。小艇に11名を残して49名で上陸、一時間に及ぶ敵兵(1,500名)との戦いでマゼランは戦死する。マクタン島には、ラプラプ王の銅像の横にマゼラン廟が建立されている。ラプラプ王は「ヨーロッパの侵略者たちを追い払った最初のフィリッピン人」と顕彰されている。提督と8名の隊員、キリスト教徒になっていたインディオが戦死した。
     ・マゼランはマラッカ生まれの奴隷・エンリケを長年通訳として使っていたが、マゼランの戦死後、エンリケに怠け癖がついた。後任の指揮官が、ベッドで寝そべっているエンリケをこっぴどく怒鳴りつけた。根に持ったエンリケはセブ王に「船はまもなくこの地を去る。自分の言うとおりにすれば、船隊の船と物資を全部手に入れることができる」と讒言する。数日後、セブ王から「スペイン国王に献上する宝飾品が出来上がった。朝食を共にしたい」と。指揮官を含め24名が招きに応じて王宮へ、そして、殺された。

 ・セブ島からモルッカ諸島へ。残り人員が150人程で、3隻の船を操船するのは困難と判断し、コンセプシオン号を焼き捨てる。残り二船は、ビクトリア号(フアン・エルカーノ船長)、トリニダード号(ジョアン・カルバッジョ船長)。1521年11月8日、遂に目的のモルッカ諸島に到着。丁子(最も高価な香辛料)を最も多く産するテドリ島に滞留する。テドリ王に、ありとあらゆる歓待と厚遇を受ける。

 ・1521年12月21日、テドリ島出航。トリニダード号は出航後まもなく船底から浸水し、隊員50名と共にテドリ島で修理することになった。約4か月後東向きで出航しパナマに向かったが、逆風に悩まされモルッカ諸島に逆戻り。ポルトガル人に捕らえられ、餓死・ティモール島で逃亡・処刑等で、4名だけが3年後スペインに帰ることができた。

 ・ビクトリア号は東風を利用して60名(インディオ13名含)で西向きに出航。1522年5月6日喜望峰を迂回、すでに寒さ・食糧不足で22名が死亡。7月7日、ヴェルデ岬諸島の一島に食料確保のため錨を下ろす。ポルトガル管轄地につき13名の乗組員が拿捕される。直ちに出航し、9月8日サンルーカル港に入港。帰還した乗員は18名、80,571㎞、1080日の航海であった。

 ・最初に世界一周を成し遂げた船長はフアン・セバスティアーノ・エルカーノである。しかし、他の何人も世界を周航するなどという才知も勇気もなかった時代に、航海術に熟達し海図についての知識、強い信念と実行力を持ったマゼランこそ、これを殆ど実現した人物といえるだろう。

 ・フアン・エルカーノは1525年、7隻からなる船団の提督として香料諸島に向かった。2度目の世界一周を試みたが、壊血病と栄養失調により、太平洋上で死去した。

 ・なおサンルーカル・デ・バラメーダでは、2019年9月20日~2022年9月6日の間、「世界一周500年祭」に向けたプロジェクトが進められている。健康管理に努め、ぜひこの祭典に参加したいと考えている。
                                               おわり



    ここで休憩時間を利用して、参加者全員による「記念撮影」


プログラム2  懇親会   ( 司会 : 宝田雄次 )

  (1)乾杯   村上 馨さんのご発声で乾杯。
  (2)歓談
  (3)中締め 大柴隆士さんのご発声で中締め。
                                                             以上