2009年6月15日 岡本 洋
(MATRIX No.65 July 1,2009 に 投稿掲載されたもの)
1.始めに
昭和初年期は光と影の交錯する激動の時代であった。 その中で昭和2年の我国に発生した「昭和金融恐慌」は 第一次世界大戦の戦勝国としての繁栄の光の後に訪れた特筆されるべき暗い大事件の一つであり、港湾都市神戸は
甚大な被害をこうむることとなる。 川崎造船㈱は経営危機に陥り、松方幸次郎社長も退陣にいたる。
また一時は三井物産をしのぐまでに発展した神戸の貿易商社・鈴木商店も破綻する。 続いて、その2年後の1929年/昭和4年には、米国ニューヨーク株式市場の大暴落に始まる「世界恐慌」が勃発、その世界的な影響が押し寄せる。 まさに激動の時代ということが出来る。
一般に「昭和恐慌」とは、この昭和2年の「昭和金融恐慌」と共に、その後1929年に始まる「世界恐慌」に影響された1930年代のわが国の経済金融―特に農業恐慌をも含めた表現だとされている。 以下に、松方幸次郎の活躍を参照しながら、この時代の海事の動きをかんがえる。
2.大戦景気――第一次世界大戦 1914(T3).7.26~1918(T7).11.11
ここに、Tは大正。 以下にSは昭和、戦中・戦後等は特記以外すべて第一次世界大戦。
2.1 漁夫の利の日本――
1914年(T3) 6月26日 世界の火薬庫と言われ、現在も尚紛争の絶えないバルカン半島のボスニアの首都サラエボで、セルビアの民族主義者の青年により、当時の大国オーストリアーハンガリー帝国の皇太子が暗殺された。 これを契機に第一次世界大戦は文字通り世界規模に広がってゆく。 主戦場は勿論ヨーロッパだが、後には中東・アフリカ・東アジアからインド洋・太平洋へと拡大。
日本は当時締結されていた日英(軍事)同盟により、2ヵ月後の同年1914年(T3).6月23日 対ドイツ 宣戦布告。 然し、我国は中国山東半島、シベリア出兵など、又ドイツによる若干の船舶被害はあったとしても直接関与は少なかつた。 むしろ、世界規模の戦争による膨大な消費、先進国の輸出マーケツトからの退場、先進工業国との競争の空白、ドイツUボートによる無警告・無制限攻撃による船腹の喪失などの外的条件により、日本は、戦時景気の恩恵を極めて大きく享受したといえる。
2.2 日本商船隊、新造船量が躍進――
この時期、「日本が世界市場にまさに彗星の様に登場した」と西欧関係者が評したように、日本海事は躍進した。 「日本商船隊船腹量」は戦後1920年には英米に次ぎ仏と略同じで世界第4位3百万GT。 新造トン数はピーク時、世界の約10%に達した。
2.3 船舶の大量建造――
第一次世界大戦の開戦と進展により、ドイツU-ボートによる被害による船腹消耗の補充のため、更に補給需要の急拡大により新造船需要は爆発的に高まりバブル状態となる。 それは戦後しばらく続く。 その間のグラフは、MTS100回例会で発表した(詳細はMATRIX
No.64に掲載したスライドNo.8,9,16,17等参照されたい)。 建造量については、英国は世界の60%を建造して世界トツプの座にあったが、戦時中一時半減する。 その時期日本の躍進して一次世界10%のピークを記録している。 これが川崎造船・松方社長のドラマの舞台となる。
3.貿易量と船舶トン数の推移――1900年~約30年
3.1 世界の貿易量と船舶トン数の推移
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← 第1図
世界商船トン数は第一次世界大戦期間を含めて増加、戦後の1923年頃から停滞。
一方貿易量は極端な山谷を示す。 1920年頃の落ち込みは船余りの海運だ不況を示している.。
「係船量増大」――1922年(T11) には、世界船腹の1/6 が係船状態、1926年(T15) でも1/9 に達した。
大不況は世界恐慌の伏線となる。 「世界恐慌」1929年(S4)後の 世界貿易量の落ち込み量は劇的で、約-1/4 もの減少に達する。 |
3.2 日本の貿易量と船舶トン数の推移
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← 第2図
*注意、縦軸は比率表示。
*191*3年(T2)=100
第一次大戦中を含めて日本の商船隊トン数は1930年(S5) まで順調に増加している。
貿易量で特徴的なのは、
*「大戦中貿易」――輸出急増、輸入減少。
*「戦後、世界恐慌1929年(S4)まで」――輸入超過。
輸出不振による戦後の野経済不況を示している。
戦後10数年を経て1932年(S7)ごろから回復の兆しだが、1931年(S6) には満州事変が勃発、日本は破滅的な太平洋戦争へと進んでゆくことになる。 |
3.3 我国の貿易収支、経常収支
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← 第3図
*1890(M23) ~1965(S40)
*貿易収支=輸出―輸入
*経常収支=貿易収支+所得収支+サービス収支+所得移転収支
第一次大戦時期の未曾有の景気の様子が示されている。
それにしても、明治の後半から50年近くの すべての期間にわたり経常収支赤字体質の連続である。
これは、昭和恐慌の背景となる不況の背景をよく現していると思われる。 |
4. 船舶建造推移
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← 第4図
*注意、縦軸は対数表示。
日露戦争の4年前1900年(M33)から1935年(S10) までの35年間の我国の船舶建造量推移を示す。
大戦開始からの急増も、又戦後1, 2 年の後の急減も、ものすごい変化である。
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5.松方社長とストックボート
5.1 川崎造船と時代背景――
1891年(M24)松方正義が第一次松方内閣を組閣した時、三男幸次郎は首相秘書官となった。 然し、その5年後の1896年(M29)、創業者川崎正蔵は個人経営・川崎造船所を会社組織とするにあたり後継者として招聘、政治家から経営者へと転進した松方幸次郎、社長が誕生した。 日清戦争1894-95年(M27-28)に勝利した翌年のことであり、また日本政府が「造船奨励法」、「航海奨励法」を公布して新造船建造、商船隊拡充の補助政策に着手した年でもある。
松方は以後、会社設備としての乾ドツク建設を含めて会社設備の拡充を積極的に推進した。
当時は世界的な軍拡の時代であったが、当時の連合艦隊の主力艦はすべて外国で建造されたものだったが、川崎造船所は民間で最初の本格的な軍艦建造として、M41年建造の1,000Ton通報艦「淀」を完成、之に続いて4,400Ton二等巡洋艦「平戸」M45年に完成させる状態までになっていた。
永らく神戸港のシンボル的存在であった長さ330mのガントリー・クレーンが完成したのは年号大正に変わった1912年11月であった。
因みに、三菱造船所もほぼ同時期長崎において、1893年(M26)に合資会社となる。 同三菱神戸造船所はやや遅れて日露戦争終戦の1905年(M38)
設立された。
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第5図 松方幸次郎
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5.2 川崎造船所のストツクボートの建造―― 10年間96隻約55.9万GT
第一次世界大戦が始まると軍事物資の輸送、アジア向けの輸出も急増、海上運賃も急増。船価も急騰。 国内の造船所設備も1,000Ton以上の船台数は開戦前1913年(T2)と終戦時1918年(T7)で6工場・17基から57工場・157基に増えたとのいう。 このような造船ブームのもと、松方はストツクボートの建造に踏み切る。
之は当時の標準型と目される5,000GT/9,000DWTon貨物船の見込み連続建造である。 1916年(T5)の第一船「第一大福丸」から1926年
(T15)の10年間96隻、55万8,694GTが量産された。
この時、川崎造船所において当時の米国の持つ記録を破る「1918年(T7)、「来福丸」5,857Gtonの起工後・30日完成」の短期建造世界記録が樹立された。
ストックボート96隻のうち、32隻は建造中に売買契約成立、25隻が英・米に売却。 内12隻が米国政府との「船鉄交換契約」によるものだった。 戦時下英米は造船用鉄材の輸出を禁止、当時殆どの鉄材を米国からの輸入に依存していた日本で、松方は米国政府に対し駐日米国大使とのハードネゴの末、トン数
/ DWTonの好条件に成功している。
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← 第6図 ガントリークレーン
(川崎造船所)
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6.「昭和金融恐慌」、松方社長の退陣、鈴木商店の破綻
6.1 戦後不況と金融恐慌
「船腹過剰、貿易量低下、長期輸入超過、大幅の貿易と経常収支の継続赤字、新造船建造量激減」なのは、図1、2、3、4 を見れば一目瞭然である。 これにより戦後しばらくして世界と共に我国は深刻な経済不況に襲われることとなる。
①世界貿易量は戦後2年目の1920年には開戦前の20% 減(図1)であるのに世界船腹量は15% も増加している。 又
②日本の貿易は戦後から10年間も輸出が回復せず輸入超過つづいている。
③我国の経常収支の戦後の落ち込み落差が異常に大きい。
④建造量の戦中の急増に対し戦後の急降下振幅が余りに大きい。 戦中ピーク時約80万Ton/年が戦後7年の1925年(T14)の10万Ton /年まで、実に1/10にまで急降下する激しさである。 以後も低迷が続く。
このような世界規模の不況は、社会・経済・金融の組織・法制不完全過程にあった大正末期から昭和初期の我国を襲うことになる。
6.2鈴木商店破綻と松方社長の退陣
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← 第7図
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不況により、川崎造船所の人員整理のやむなきにいたる。米騒動がおこり社会不安はつのる。衆議員予算委員会における大蔵大臣の「本日、渡辺銀行が取り付けにより破綻しました」という事実誤認による答弁(1927.3.14)に端を発し、本当に渡辺銀行は破綻。
続いて2週間後には台湾銀行が1927年(S2)3月27日に新規融資を停止したことにより、さしもの鈴木商店も遂に事業停止、会社清算となるという急展開となる。
川崎造船所もメインの十五銀行も1月後の4月21日に臨時休業に陥る。 政府は翌4月22日より3週間の支払猶予令を発動、日銀は6億円の救済資金の放出を行い、恐慌はようやく沈静化することとなった。
この3月から7月の間に休業した国内の銀行は37行に及んだ。 川崎造船所でも2次にわたる人員整理の後、和議成立、ついに松方幸次郎社長は辞任した。 然し、この一連の混乱は単に昭和恐慌の幕開けに過ぎず、2年後のニューヨーク株式相場暴落を契機にした世界恐慌へと暗い時代が続いてゆくことになる。
7.考察とまとめ
7.1 松方幸次郎――
『彼は私の目標ともいえる存在になった。 ―― 今も尚、国際社会において如何にあるあるべきかを、私に教え続けている。 幸次郎は封建社会の中にまれたが、時代は近代国家への転換を遂げようとしていた。 ――彼は、アメリカに留学したが、その期間に民主主義の知識を吸収し、世界的価値観の認識を高め、それを
生涯にわたって身に着けた。――」と 彼を伯父とするライシャワー元駐日大使夫人ハル・マツカタ・ライシャワー氏は記している。 かれの人物像が浮かび上がり興味深いことばである。
彼は出張中でのロンドン、パリにおける西洋絵画や浮世絵の収集を当時としては極めて大規模に行い、今日これらの一部は「松方コレクション」として上野の西洋近代美術館に保管されている。 又川崎正蔵が創設した「神戸新聞」の初代社長でもあり、文化的側面で広く知られる。然し、対戦中の1916年(T5)、自身アメリカに出張して政府筋、鉄鋼メーカーとの造船用鋼材の交渉、更にヨーロッパに渡ってはロンドンを中心にストツクボートの売り込みなどにおいてマーケツトの変化を機敏に把握して果敢な営業活動で成果をあげている。
7.2 川崎汽船の設立など
松方社長は当時の帝国海軍の軍拡に呼応して軍艦建造を拡大していった。 また機関車製造分野に進出、後の車両部門となる。 更に製鉄部門にも進出、1916年(T5)から条鋼、型鋼の製造を開始し、4年後には薄板、抗張力鋼の生産を神戸市内葺合の脇浜工場に開始するに至った。 後年、第二次世界大戦後この部門は川崎製鉄として分離独立した。
一方、大戦終結と同時にロンドンから帰国1918年(T7)11した松方は盛んに建造したストツクボートの対処策と
して海運市場に進出を決意、従来の川崎船舶部を統合して翌1919年(T8)4 に川崎汽船㈱を設立した。 「戦災復興で船を必要としている欧州各国に売却すれば赤字は防げるが、いたずらに外国海運を利することになり、わが国益に反する、新たに海運会社を興し、新造船を活用すべきである」との決断だった。 ほぼ同時に鈴木商店の主導により、川崎造船所、鈴木商店、浅野造船所など9社が50万トンの船舶を提供することによる「国際汽船」が設立された。
然し、今まで見てきたように昭和恐慌の厳しい経済環境のなか、船社は厳しい経営を永らく続けることになる。19世紀後半から日清、日露戦争、第一次世界大戦と戦争の時代が前後30年も続く戦争の時代、一方戦後のロンドン軍縮会議のように米英勢力の日本に対する軍事・経済圧力の高まりつつある時代である。 国益を優先したという松方の決断は理解できる。 然し、これに答えるべき政府の体質、実力が伴わなかった点で、議論のあるところだと思う。
7.3 世界恐慌から、戦時態勢へ
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← 第8図 ニューヨーク株式大崩落
左の第8図は 1929年10月26日の神戸新聞で、ニューヨーク㈱暴落の初報だと思う。 |
米国は大戦への参戦による需要の拡大、重工業への投資増大、帰還兵士の消費拡大、モータりぜーションのスタートによる自動車工業の好況などの要因により、戦後も刑さ財は進展していた。 然し、ヨーロッパの復興、ロシアの経済圏離脱、アメリカ農業の過剰生産などのマイナス要因が次第に顕在化していた。 3日後の29日には更に大規模の暴落となった。
一連の暴落により米連邦予算の10倍に相当する300億ドルが失われた事になる。 これはアメリカが第一次大戦に費やした総戦費をも上回る巨額なものである。 産業革命以後、工業国では10年に1度のペースで恐慌が発生していた。 しかし1930年代における恐慌(世界恐慌)は規模と影響範囲が絶大で、自律的な回復の目処が立たないほど困難であった」。 そしてその影響は世界に波及し、世界恐慌に発展したとかんがえられている。
然し、米FRB理事長で経済専門家のバーナンキ氏によると、米銀行群の倒産にGRBがうまく対応できなかったこと、オーストリアのロスチャイルド系銀行の破綻が専門要因だとしている。 この考え方の主旨は「わが昭和金融恐慌が当時の高橋是清蔵相の鎮静化策が適切であったと高く評価されている」ことを意味するものと思う。
7.3 船質改善助成、航路数の増加
政府は、ニューヨーク株暴落から3年後の1932年(S7)に第一次船舶改善助成施策を実施しスクラップ&ビルトに よる大型高速優秀船舶建造に資金援助をはかり順次、第二次、三次と継続された。 これらはすべてディーゼル主機が採用された優秀船であった。
ここまでの中では、造船については主に量的側面を中心に検討してきたが、この時期の我国の造船技術はどうだったか、については触れなかった。 この点について、文献9にはかなり厳しい考察がのべられている。 この問題は中々興味あるポイントだが、ここでは紙面の関係もあるので取り上げず、別途機会があれば検討してみたい。
(おわり)
参考資料
1.「川崎汽船五十年史」 川崎汽船㈱編 昭和44年8月 1日
2.「九十年の歩みー川崎重工業小史」川崎重工業㈱ 昭和61.年10月15日
3.「火輪の海―松方幸次郎とその時代」上、下 神戸新聞社編
4. 百科事典 Wikipedia 各種 及び 各種hp。
5.「海事発達史」 岡本 洋 MATRIX No.64. Nov. 1.2009. 第100回MTS講演
6.「近代日本の経済発展―長期経済統計による分析」大川一司、南亮進
東洋経済新報社 昭和50年6月5日
7.「長期経済統計―統計と分析」善14巻
編集 大川一司、篠原三代平、梅村又次。東洋経済新報社 昭和50年6月5日
1.「国民所得」 大川一司、高松信清、山本有造 昭和49年9月25日
3.「資本ストック」大川一司、広渡茂、山田三郎、石弘光 昭和41年8月25日
14.「貿易と国際収支」山澤逸平、山本有造 昭和54年2月2日
8.「昭和造船史」第1巻 戦前・戦時篇。日本造船学会編。原書房 昭和52年10月30日
9. 「第一次大戦前後の日本造船業(4)」小池重喜 高崎経済大学論集 2007年
以上
追記 ― 松方幸次郎 略歴
1866年慶応元年~1950年昭和25年6月234日。 鹿児島生まれ。
6歳で上京、開成中学、 東京大学中退、米国留学(NJ州ラトガーズ大学、NY.エール大学)、仏・バリ大学。
帰国、父の松方首相秘書官、川崎造船所創業者の川﨑正蔵の要請で川崎造船所初代社長、神戸新聞初代社長、川﨑汽船設立初代社長。 車両・航空機・製鉄と業容拡大。
西洋絵画、浮世絵の世界的コレクション。 戦後、衆議院議員など。 (おわり)
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