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27ページの分厚い資料にまとめられた、大変中味の濃い話であった。 昔から邪馬台国がどこにあったかという議論が盛んである。 井澤さんは、退職後世界の造船所の建造コンサルタントとして働いてこられ、完全退職後70歳を過ぎて日本古代史について調査されてきた。 今回その成果の一端を披露していただいたものである。
魏志倭人伝(成立,284)に記載された旅程から邪馬台国の位置を推定し、それが博多湾岸に存在したとする説の紹介があった。 この説では、中国で用いられる「里」には「短里」と「長里」があり、時代によってそれが使い分けられていること、魏志倭人伝は短里で記述されていることを検証した古田史学を根拠とするものである。 至極当然な結論だと納得させられるものがあった。
そもそも、天孫降臨のあったのは日向の地であり、そこから神武天皇は東征し、熊野に上陸、大和に朝廷を築いたという神話自体九州を起源としているように、九州は、中国や韓国にも近く、交易しやすく、気候も比較的温暖で稲作も容易であったのではなかろうか、縄文時代から弥生時代に変化する最前線であったのではないかと自問したところである。 その後も九州王朝は繁栄したが白村江の敗戦(663)を境に凋落してしまった。 白村江がどこにあるか再確認してみると、私が勝手に想像していた位置より結構北方にある。 かのSeoul号の運航コースに近い。 韓国西岸は遠浅で潮流激しい海域と聞いている。 そんなところを何万人もの兵士が船で北上しても、逃げた敵の方が海をよく知っていたのではないかという気がする。 なぜあのような無謀に近い戦いに乗ったのか、劉仁軌におびき寄せられて、まんまとその罠にかかってしまったのか、今度は、白村江の戦の顛末について詳しく話を聞きたいものだと思った次第である。
その後、代って大和朝廷が次第に勢力を伸ばし始め、大化の改新、壬申の乱をへて、8世紀になって、古事記、日本書紀、万葉集などの編纂が完成した。 これらは、特に日本書紀は、中央集権化する大和朝廷(天武天皇)の正当性を主張することを目的としたもので、九州王朝はことごとく無視されているという。 万葉集でも、地名は畿内のものに書き換えてあるそうだ。 香具山は標高52メートル、こんなところから「国見」をしても何も見えるはずもない。 これを別府湾の鶴見岳(1375m)とみなせば、将にぴったりする、などなど。
3世紀以前の邪馬台国から8世紀の大和朝廷時代までの通史になっている。 21世紀の現在からみれば1800年から1300年前の話; 15歳の少年にとっては年齢の90倍から120倍の大昔の話かもしれない。 しかし、私たちの人生の長さで測ってみれば、15倍から20倍昔の話。 だんだん身近な話に聞こえるようになってきた。
綿密な資料を基にした3時間にわたる講演について行くだけで精一杯であったが、歴史を楽しむ貴重な時間ではあった。
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