「軍艦総長平賀譲」(内藤初穂著)(中央文庫)
此の本は題名のしめすように、第一部として軍艦設計者としての平賀、第二部と
して東京帝国大学総長としての平賀について書かれたものである。 平賀は1901
(明治34年)東京帝国大学工科大学を卒業、海軍造船中技士(造船中尉に相当)
となり、1926(大正15年)造船中将にすすみ、1931(昭和6年)予備
役となる。この間、1918(大正7年)東大教授となり、1938(昭和13
年)より、総長を務める。以下に主として第一部についての紹介と私の読後感を
述べたい。平賀は外国の手を借りることなく海軍が大艦の建造を始めた日露戦争
当時より、 日本最後 の戦艦大和型の設計いたるまで,長期にわたり艦艇設計の
中枢にあった。とくに戦艦長門・陸奥、八八艦隊の主力艦(軍縮条約により建造
中止)軽巡洋艦夕張・重巡洋艦古鷹・妙高型などの列強の技術水準をしのぐ艦を
設計した。しかしここに至るまでの彼の行程は淡々とした道のりではなかった。
軍艦の設計は一般的な船の基本性能(速度、強度、復原力)に加えて戦闘力、防
御力を過不足なく見合わせね ばならない。そのバランスを維持するため、平賀
は時に用兵側の要求する戦闘力(兵器)の重量を制限したり、搭載を拒否するこ
とも度々あった。「技術屋の任務は用兵側の注文を形にすることにある」との用
兵の反撃を、「船の基本性能重視」と平賀は譲らない。あれでは「平賀譲」では
なく「平賀不譲」だと、用兵側の反感がつのる。一方技術側にも、平賀の設計内
容、部下の扱い方などをあげて、反平賀派が台頭する。こうした不満が鬱積した
1923(大正12年)平賀に欧米出張の命が下る。時に平賀は造船少将、艦政
本部・第四部(艦艇建造所掌)の計画主任だった。帰朝後の第四部長就任を確信
してロンドンへ旅たったが、四十五歳の大人としては、平賀の認識は甘かった。
これは反平賀派の陰謀だった。翌年帰国した平賀に与えられた場所は、第四部長
室はおろか、会議室の片隅の衝立で囲まれた一郭だった。今の時代の窓際族で、
艦艇設計のラインから外された処遇だった。しかし海軍はこれまでの平賀の功績
を忘れることなく、1925(大正14年)技術研究所造船研究部長に任命し、
翌年は位を造船中将にすすめた。技研時代(既に東大教授を兼務)の平賀の功績
としては、1934(昭和9年)ロンドンでの国際水槽会議で論文を発表した。
摩擦抵抗の実験式を演繹した「第一論文」と実験式の精度を実船で検証した「第
二論文」との二編である。特に「第二論文」は日本海軍が列強に先んじて大規模
の実艦(夕立)の曳航試験を行い、貴重な成果を得たというので、聴衆に深い感
動を与え、報告を終わった平賀は満場の拍手に包まれたという。平賀が艦政本部
を離れたあとに設計された艦艇の事故、1934(昭和 9年)の 「友鶴」の転
覆事件、第四艦隊の水雷艦隊の船首損傷事件は、いずれも造船設計陣が、用兵側
の要求に妥協した結果の、復原性や強度の不足が原因であるとされた。事件の翌
年、計画の強度改正を審議する「臨時艦艇性能改善調査委員会」が設立。既に予
備役となり海軍を離れた平賀も、海軍嘱託、東大教授としてその委員の一人だっ
た。平賀は秋霜烈日、後任者の設計を否定した。彼は 電気溶接を信用しなかっ
た。また、当時、昭和十二年から始まる無条約時代に備え、大艦の設計が進めら
れていた。一八インチ主砲三連装三基搭載の巨大戦艦、後の大和型の設計である
。これにも平賀は海軍嘱託として参加した、いや主力艦の計画にかんするかぎり
、経験といい実力といい、彼なしでは作業は進まなかったに違いない。基本計画
主任の福田啓二 は柔軟な性格でもあり、平賀の力量を認め、 その設計理念も平
賀の流れを汲んで巨艦計画は順調に進んだ。昭和十年十月十九日、高等技術会議
で、後に大和、武蔵となる巨大戦艦の大綱が決まった。平賀自薦の案は棄却され
たが一部を除いて平賀案そのもの、頑固なまでの古典主義の踏襲であった。
昭和十二年、明治節の翌日、十一月四日、呉工廠で戦艦大和の起工式が極秘裏に
おこなわれた。東大に戻った平賀は、時代の空気に取りまかれた。昭和十三年、
東大総長に選出された。つづいて 所謂「平賀粛正」がはじまる。以上、艦艇設
計者としての平賀の足跡を、あし早に辿ってきたが、著者(内藤)は本書の中で
その背景となるワシントン・ロンドン条約に対応する政府の方針、時局の流れ、
海軍首脳の動き、艦政本部、同第四部の人脈、平賀をめぐっての毀誉褒貶、その
歩みの迂路曲折、さらに夫の裏に女の影をみる夫人の悩み・・・・等々、綿密な
調査にもとづく記述がつづくここであらためて平賀が守りぬいた <船を構成す
る各性能のバランス、過不足なき重量配分のための努力>に造船屋の本領を見出
す。今の コンピュター使いに徹した造船設計屋にぜひ読んでもらいたい本であ
る。
私と内藤は、平賀総長下の東大船舶工学科に、昭和十五年入学した。その年の十
月八日、天皇陛下の行幸をお迎えしグランドの式台に海軍中将の軍服で持立する
彼の晴れの容姿をみた。十七年九月の卒業式には平賀総長の激励の辞を聞いて送
りだされた。さらに私は十六年に海軍委託学生に採用されたので、<新顔はどん
なやつか>と海軍学生製図室を珍しくのぞかれたた総長からお言葉を戴いたこと
がある。
平賀総長は昭和十八年二月十八日、春を待たずに急逝した。誌面をかりて、内藤
初穂君を紹介すると前述のごとく東大船舶工学科卒。海軍技術科士官。戦後は、
もっぱらノンフィクション・ライターとして活躍。「海の女王 浅間丸」はその
波瀾の生涯を克明に描き、「奮竜」「桜花」は、特殊兵器の技術的全貌、とそれ
を取りまく戦時環境を 如実に伝えている。後者は英訳もある。厳密な事実の考
証に定評がある。また大著「戦艦武蔵の建造記録」の事実上の編集者である。最
近「軍艦総長 平賀 譲」とともに、「浅間丸」「桜花」も文庫化されている。