5.2 西欧のユダヤ人(アシュケナジム)
5.2.1 中世以前 ユダヤ人の西欧居住はローマ時代に遡る。エルサレムの第二神殿が破壊された 紀元70年以来、ローマ軍団により、彼等は捕虜、商人、医者等として連れ込まれ た。そして、イタリア、スペイン、フランス、ドイツ等ローマ帝国の全領土に住 み着いた。最初は農夫やまた国際商人、職人として働いた。ローマ皇帝がキリス ト教に改宗して以来、ユダヤ人はキリスト教との間に厳しい区別を設けられなが ら、手工業の職人として働いた。
5.2.2 十字軍の迫害 ユダヤ教徒が中世の西欧社会から排除されていったのは12世紀末-13世紀、 十 字軍運動の宗教的狂乱時代においてであった。カトリック教会は、ユダヤ教を、 キリストを裏切った憎い宗教として「交際禁止」等の差別政策を発令、ユダヤ教 徒は農耕、都市での手工業、国際貿易等、一切の生業を捨て、社会から閉め出さ れた。ただ、一つだけ、キリスト教徒が従事してはいけない金融業、行商等は許 され、それにより辛うじて生計を維持し、そして納税しなければならなかった。 カトリックの教義では、「利子取得は罪悪、イエス殺しの裏切り者、ユダヤ人は 、日々、利子取得の罪を犯し続けるのがふさわし」と云う考え方であった。しか し社会にとって金融業は必要である。ユダヤ教を差別するが、「根絶やし」は避 け、彼等に金融業をやらせて社会に役立たせる。」と云う「ずるい考え」であっ た。1095年、イスラム圏パレスチナを解放するため、キリスト教徒は十字軍を組 織した。そして、最初の血祭りとして、ユダヤ人が襲われた。欧州各地のユダヤ 教の共同体は次々に襲われ、略奪、大量虐殺が行われ、無数の難民が発生した。
5.2.3 ゲットー設置 1215年、キリスト教とユダヤ教の共存がきびしく禁止され、ユダヤ教徒は異な る衣服、パッチ(布切れ)を付けさされた。これはユダヤ教徒がキリスト教徒の 女性と交わることを防止するためであった。そして、これがゲットーの設置へと 繋がった。 13世紀の後半、まずドイツでユダヤ教徒の特定地区への強制隔離が実行された 。エットーの始まりであった。ゲットーの周囲は壁で囲まれ、日暮れと共に門は 閉ざされた。やがて、ゲットーは西欧各地に拡がり、ユダヤ教徒の物理的隔離体 制が完成する。こうして、ユダヤ教徒達は西欧キリスト教社会の最底辺に位置し 、誰からも相手にされない「被差別集団」として形造られていった。
5.2.4 中傷虐殺 中世、西欧キリスト教徒により「儀式殺人」「聖餅冒涜」と云う中傷が度々な された。「儀式殺人」とは、「ユダヤ人がキリスト教徒を誘拐し、拷問にかけ、 生き血を抜取ってユダヤ教の儀式に使う」と云う、根も葉もない流言が何処から となく飛び、人々はそれを信じた。「聖餅冒涜」は「カトリックのミサに使われ る小さいパンをユダヤ教徒が盗みピンを刺したり、叩き潰して冒涜する」と云う 馬鹿げたデマである。いずれの場合も、その都度、ユダヤ人が告発され、自白を 強要され、殺され、財産を没収された。これらは13世紀、頻繁に行われた。ユダ ヤ人に対する中傷は、ペストの流行(14世紀中頃、全ヨーロッパを襲い、 250万 人の命を奪った)で頂点に達した。「ユダヤ人が井戸に毒を投げ入れたためだ」 との噂が飛び、多数のユダヤ人がキリスト教徒に襲われ、殺害された。 以上が西欧、中世におけるユダヤ人迫害である。すべて、カトリック教会の主 導でキリスト教徒が行った宗教的迫害であった。
Fig. 10 左 ペスト疑惑:キリスト教徒、ユダヤ人に自白強要の後、虐殺した。 右 儀式殺人 :キリスト教徒の生き血を抜き取ってユダヤ教の儀式に 使うと云う流言が信じられ多数のユダヤ人が虐殺された。
5.2.5 イデイッシュ語の形成 強制隔離されていたドイツ在住ユダヤ人の話すドイツ語にヘブライ語色が強く なり、その後、彼等が東欧へ脱出するに伴い、スラブ系、ポーランド系言語が混 ざり、イデイシュ語が形成された。イデイシュ語は世界各地のアシュケナジム系 ユダヤ人の言葉として拡大、文学も拡がった。第二次大戦前には1000万人以上の 話し手を獲得していた。けれども、ホロコーストにより話し手は激減、現在、イ スラエルでヘブライ語と共に再生が図られている。
5.2.6 ポーランドへ逃避のユダヤ人 迫害に耐えかね、多くのユダヤ教徒は東欧等に逃れた。 14-15世紀以降20世紀 前半まで、東欧がユダヤ人の中心地となった。なかでも、ユダヤ人に対して寛容 な政策を採るポーランドはヨーロッパ中でユダヤ人移住者がを最も多い国となっ た。ポーランドは農業国で貴族達の所有する荘園を農奴が耕し、商業は未だ発展 していなかった。王侯、貴族は国の建設を助けて呉れるユダヤ人達を歓迎した。 ユダヤ人達は大都市にユダヤ人社会を造り手工業(製靴、制帽、洋服仕立等)、商 業の体験を生かしポーランドの発展に協力した。
5.2.7 ロシア領、ユダヤ人虐殺(ポグロム) 18世紀、ポーランドが分割され、ポーランド王国が崩壊し、ロシアの時代とな った。そして、ユダヤ教は再び迫害を受け始めた。ロシア政府は領内に「ユダヤ 人定住許可区域」を設け、活動の自由を奪った。大規模なゲットーと云ってもよ かった。18世紀後半、アレクサンダー 2世は様々の改革を行い、ユダヤ人の待遇 もよくなり、医者、薬剤師、作家、芸術家、法律家、学者等の自由が認められた 。けれども、アレクサンダー2世 の治世は必ずしもポーランド人や農奴、工場労 働者等の民衆を満足させるものではなかった。1881年、彼は暗殺された。替わっ たアレクサンダー 3世は、一転して反ユダヤ政策を推進した。そして、ロシア語 で「ポグロム」と呼ばれる反ユダヤ暴動を煽動した。ミュージカル「屋根の上の バイオリン弾き」(日本でも森繁久弥がロングランして好評)はこの時代のロシア におけるユダヤ人一家を描いたイデイッシュ文学である。1881年の「ポグロム」 で、エリザベートグラードで 15000人のユダヤ人が犠牲になったのを契機に、ロ シア各地で「ポグロム」が発生、ロシア政府はこれに追打ちをかけて、1882年、 ユダヤ人が村に住むことを禁止、町や特定居住所の数を制限、高等教育機関への 入学制限を法制化した。この「ポグロム」はヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国の 反発から1884年に収まったが、この時、ロシアから多くのユダヤ人がアメリカへ 脱出、移住した。
5.2.8 アメリカへ渡来したユダヤ人 ポグロムを逃れてロシアを後にしたユダヤ人の行先は南北アメリカ・オースト ラリア等であったが、中でも多かったのはアメリカ合衆国であった。 1880年− 1920年の移住者数は200万人に達した。 真先に移住したスペイン追放組以来、 1825年までに10000万人が既にアメリカに住着いていた。 次いで1820年代後半− 1860年にかけて、中欧(ドイツ、ボヘミア、ハンガリー等)から渡来したのがドイ ツ系ユダヤ人(アシュケナジム)であった。フランス革命後は西欧では、一応、平 等権をえたものの、新たな「反ユダヤ主義」が起こり、その迫害から逃れたので あった。一文なしでアメリカに着いたこれらドイツ系ユダヤ人は、西欧人アメリ カ開拓者の後に従って、装身具や馬車に積んだ家具等を売り歩いた。開拓地が村 、町になり、やがて都市になるにつれて、彼等は行商人から中小企業経営者、ま た大企業家になった。ニューヨーク最初のB・アルトマン百貨店、メーシー百貨店 はじめ大デパートは殆どドイツ系ユダヤ人のものである。彼等は衣料品産業を起 こし、後に東欧系ユダヤ人に引継いだ。彼等は主要産業銀行の中には入れなかっ たが、新たに投資銀行業界、証券業界等に進出し、大成功を収めた。 このようにして資産階級となった彼等は1880年代、「ポグロム」で追われた東 欧系ユダヤ人を味方として受け入れ、アメリカ国内の「反ユダヤ組織」と闘い、 また、種々の慈善団体を結成し、結束して彼等を助けた。 アメリカ合衆国に到着した東欧系ユダヤ人の 70%近くはニューヨークやフィラ デルフィア、シカゴ等の都市部に住んだ。中でも、とりわけニューヨークが多か った。貧民窟のような建物にひしめくように住み、言葉も習慣もわからぬまま、 ほとんどすべての仕事をした。少数の者は行商人、しかし利益はたかが知れたも の、大部分はタバコ、皮革、衣服工場の労働者となり、悪労働条件に苦しんだ。 それでも、故郷の経験を生かして洋服、婦人服裁縫師になった。また肉体労働者 として日夜、汗した者もいた。仕事は厳しかったが、彼等は東欧にいた時よりも 精神的に自由、肉体的に安全であった。彼等は出身地別に「同郷人会」をつくり 、助け合い、文化面についても活動を行った。一生懸命働きながら子供達を必ず 学校へ通わせ、自身も夜学へ通った。そして、時が過ぎると、子供達は成人して 医師、弁護士、大学教授等になるものが増えた。以上のような努力の甲斐あって 、東欧系ユダヤ人は新聞、通信、放送、情報、映画産業、芸能の分野、つまり20 世紀に急成長したアメリカの新しい産業分野において、圧倒的な勢力をうるよう になった。今、アメリカ・ユダヤ人は毎年巨額の資金をイスラエルに寄付してい る。そして。アメリカ合衆国の政治を動かす巨大な力をもっている。21世紀は「 経済戦争」と云われるが、そのアメリカの戦力として、 総勢600万人のユダヤ人 グループの存在は大きい。19世紀から、ユダヤ人が憧れ、夢に待ち望んだ。「シ オンの丘」復活の姿は、「超大国の産業都市、ニューヨークの姿」かも知れない。
5.3 西欧、近代のユダヤ人
5.3.1 宮廷ユダヤ人 中世の封建主義時代が終わり、17、18世紀、資本主義、商業主義時代になるに つれ、英国、ドイツ、オーストリア、デンマーク等の宮廷は、ユダヤ人を特権階 級に取立てて経済、財務の業務を任せるようになった。これらユダヤ人を「宮廷 ユダヤ人」と呼ぶ。「宮廷ユダヤ人」の活躍がとくに著しかったのは、財政的に 困窮していたドイツであった。「宮廷ユダヤ人」は信仰世界と世俗世界の両方に 生き、数々の特権が与えられ、やがて、財をなすようになった。そして、政府や 君主のために貸付、軍のために武器を供給、また貿易、産業を促進するのに貢献 した。
5.3.2 偉大なユダヤ人 1791年、フランス革命が起きた。「自由、平等、博愛」をスローガンに掲げる この革命により、種々の社会改革が行なわれたた。そして、差別に苦しんでいた ユダヤ人にも完全な市民権が与えられた。しかし、法的には平等になったものの 、実際には、ユダヤ人はなお、残された世間の偏見と闘わなければならなかった 。1796年にはオランダ、1798年にはイタリア、そして1812年にはプロシアと云う よう他国も次第にユダヤ人の平等権を保証するようになったが、民衆の間にはな お根強い反ユダヤ人感情が残されたままであった。 折柄、興った民族主義の高揚が、アンチユダヤ民族思想を大衆に植え付けた。 憎いのはもはやユダヤ教ではなくユダヤ民族に変わった。ユダヤ人が優秀である ことへの嫉妬、「宮廷ユダヤ人」などが、資本家の手先となったことも禍した。 ただ、オランダだけは別で、そこに住むユダヤ人は平等の権利を享受した。この ことは今も変わらない。 こうは云うものの、時代はユダヤ人解放へ向かい、 1870年、普仏戦争後、全ドイツのユダヤ人に晴れて同権が確保された。解放され た西欧のユダヤ人達は、これ以後、あらゆる分野に進出し、非凡な実力を発揮し た。フランス革命からヒトラーの時代までの100年間、 ユダヤ人は倫理的、知的 、芸術的な文化に参加、西欧思想のすべての領域を活性化し、革新的な想像力を 持込んだ。マルクス、アインシュタイン、フロイトは代表的なユダヤ人の偉人で あるが、このほかにも、数えきれない人達がヨーロッツパ文化に貢献した。とく にドイツ系ユダヤ人が圧倒的に多く、その活躍は文学、医学、理学の分野におい て特に著しかった。
5.3.3 ホロコースト(ナチスのユダヤ人虐殺) 20世紀を迎えると、帝国主義、民族主義、植民地主義は激しくなった。「反ユ ダヤ主義」は18世紀末の経済危機、社会困窮の中において勢いを増した。社会困 窮の原因をユダヤ人に押しつけるようになった。特に第一次大戦に敗れたドイツ では、社会混迷の下、「敗戦はドイツ系ユダヤ人の裏切りによる」と決めつけた 反ユダヤ的風潮が、ウイーン地方等で濃くなった。ここで青春時代を過ごし、後 、ドイツに移住してナチス党結成、第二次大戦を引起こしたアドルフ・ヒトラー は、「アーリア人種(印欧族)を人類文化の創始者と考え、世界は優良人種、ブロ ンド、碧眼のゲルマン族に支配されなければならない。ユダヤ人は劣等人種。」 と云う誤った人種理論をでっち上げ、 600万人に近い罪なきユダヤ人を殺害した 。これを「ホロコースト」と云う。ヒトラーの言によると「肌白く美しいドイツ 女性の純血を、ドイツ系ユダヤ人が汚しゲルマン民族を滅ぼす。彼等の男女、子 供すべてをこの世から絶滅させなければならない」と云う「民族浄化」を考えだ し、実行したのである。 1943年 4月、ワルシャワ・ゲットーで、ナチスに対するユダヤ人達の決死の反 撃が始まった。僅かな武器を頼りに28日間激しく抵抗したが、ドイツ軍の猛爆撃 で破壊、10000人以上が命を失い、Fig.12 は生き残った人達の姿である。この人 達は。そのまま死の収容所へ移送された。生きて帰った人は誰もいない。
5.4 考 察
5.4.1 どうしてユダヤ人は嫌われるのか? 「ユダヤ人の歴史」を顧みると、「何故これほど世界から嫌われたのか?」と 不思議である。現在でも、特に西欧では、「反ユダヤ主義」は残存し、以前と余 り変わっていないようである。ユダヤ人が嫌われる理由はたいそう難しいが。次 ぎのように列挙されている。
(1)宗教的に嫌われる。(特にカトリック教から) (2)社会的、経済的に世論の反感を買う。 (3)人生競争のライバルとして憎まれる。 (4)19世紀初頭、ヨーロッパに現れたゲルマン族優位論の生贄となった。
(1)について ヤハウエ神はユダヤ民族を「選民」した。ユダヤ教は「自民族に幸福与え 、他民族を滅ぼす」。と云う「ユダヤ固有の信仰」、ユダヤ人だけが神か ら贔屓(ひいき)にされる。他から見れば面白くない。これに対しキリスト 教は「人すべて、信ずる者は救われる」と誰でも受入れ易い。ユダヤ教の 頑固な独善性が、嫌われる源となったのであろう。「ユダヤ人がイエスを 十字架に懸けたので、キリスト教徒に敵意と憎悪を植え付けた。」と云う ことは納得できる。けれども、「イエスが十字架にかけられたからこそ、 今のキリスト教がある」と云うところまで踏み込まないのは、単なる「い びり」と云われても仕方があるまい。
(2)について 「金貸し」業に従事したが、自分の意思からではない。成功して「金持ち 」になつた者が多かったので、世論の「羨望」「反感」を買ったのであろ う。
(3)について 度重なる迫害への反発からか、あるいは天分によるものか、ユダヤ人には 高能力者が多く、また彼等は互いに強く団結したので、数多くの社会的分 野で、指導的地位を占めてしまった。当然「嫉妬」が生じ、「人生競争の ライバル」として憎まれて当然であった。
(4)について 19、20世紀の帝国主義、民族主義時代における「人種論」は今でこそ、冷 静に論ずることができるが、当時は、どうにもならない「人間の悪癖」の 現れであった。ユダヤ民族はその犠牲であり、全世界は深く反省しなけれ ばならない「いまわしい」事柄である。
5.4.2 どうしてユダヤ人から偉大な人材が出るのか? マルクス、アインシュタイン、フロイトに代表されるように、思想、科学、芸 術等あらゆる分野に偉大なユダヤ人が続出しているのは、まぎれもない現実です 。ユダヤ人には天分の才(DNAが違う)があるのか、はたまた、 彼等が努力家であ るのか思案しますが、これについて、アメリカのユダヤ系、文化人類学者ラファ イエル・パタイは「優れた頭脳のユダヤ人」が輩出する理由として、次ぎを挙げ ています。
(1)非ユダヤ人から受けた迫害をバネとして自己能力を啓発させる。 (2)優秀な者同士の結婚を親が計画する。(ユダヤ教では結婚相手は親が決め る。) (3)ユダヤ教徒の家庭では、「生きる道は頭脳に頼るしかない。子供には最善 の大学教育を受けさせる。」と云う考え方が普通である。 (4)家庭教育は刺激的、都市型生活を志向、商業的職業を強制され、知性向上 を訓練される。 (5 「非ユダヤ人」をライバル視、常に「チャレンジ精神」を 培う。
最近、日本の学生のレベル低下が議論されますが、上述のユダヤ人の教育方針 と対比し書くと、次ぎの括弧内のようになります。ご参考までに...
(1)(現在の日本では、成長のバネとなるような緊張感なし。) (2)(日本では親が持込む結婚話し、子は云うことを聞かない) (3)(日本人の若者が望むのは、「金」と「権力の座」) (4)(日本は主として田舎の代議士が幅を効かす農業国家、農業国は守りは固 いが、知 性の向上等、積極性、攻撃性がない。) (5)(最近、とみに日本人のチャレンジ精神が失われてきているようなに感じ る。) |