鎮魂「大和」
[K-Senior.1936]Aug 28,1999 Published on May 1,2000 下川栄一

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戦艦「大和」 

最近戦艦「大和」が話題になること頻り。TVが海底の惨状をあらわにするし、
新刊書も店頭にならんでいる。ぼくも「大和」、しかもその終焉について小文
を書いたことがある。いま、鎮魂の思いを新たにして、以下に再録します。

{ NATO会報・平成7年版より}「作業に及ばず」

大和出撃
既に米軍は沖縄に上陸し、佐世保に朝から度々、警戒警報が発せられる日だっ
た。昭和20年4月6日、昼過ぎ、会議室によばれた。造船部長、船こく主任
、設計主任が既に列席しており、部長から「緊急工事だ、「大和」 が損傷を
受けて入渠する。第7船渠に至急盤木の手配をせよ」との突然の命令をうけた。
闇から棒の指令だった。「大和」が沖縄の沖で片舷に魚雷をうけ、残った片舷
の機関にて15節にて航行中であるとの補足説明があった。
当時、一技術大尉の私に詳しい戦況は知るすべもなかったが、戦後文献による
と、その頃、沖縄上陸の米軍を攻撃すべく、連合艦隊司令部は天一号作戦を発
動。第二艦隊による海上特攻隊を編成、その精鋭が、大挙して南下していたの
だった。 その構成は 戦艦大和、軽巡矢はぎ、 駆逐艦 冬月、涼月、磯風、浜
風、雪風、朝霜、初霜、霞という編成だった。 特に 「大和 」 については、
沖縄島にのし揚げ、陸上砲台となり攻撃すべしとの命令を受けていたとの風聞
もあつたが、まさか軍司令部がそこまで血迷っていたとは思いたくない。
ともかく、「大和」 がその作戦に従事すべく南下中に損傷をうけたのだ。そ
の「大和」を第七船渠に迎え入れて、早急に修理し戦線へ戻さなければならな
い。そのために船渠にキ−ル盤木を設置し、受け入れ体制を作るのが与えられ
た任務だ。盤木の配置は、「大和」の重量を均分に支え、船体に無理な荷重が
かからぬ様にしなければならない。それ故に、大和用の「盤木配置」が作られ
ている。これは(軍極秘)の図面だ、此の図面が設計主任より提示され、それ
を中心、技師、技手等と詳細の打ち合わせに入る。

第七 船渠
この船渠 は、「大和」「武蔵」の超巨大戦艦 の建造と同時期に、これらの新
造艦を入渠させるための設備として計画され、既に昭和16年1月完成してい
た。その寸法は、「大和」「武蔵」を超える 長さ332米、幅 47米の艦艇
まで収容することができる。
そして幸いな事に、此の佐世保のドツクは「大和」の姉妹艦、「武蔵」を収容
したことがある。 昭和16年7月、 当時 長崎の三菱造船所で建造中の「武
蔵」がその推進機取り付け工事の為このドツクに約一ケ月入渠した。
その工事は三菱側によって機密裡に行われ、佐世保工廠側はタツチすることは
無かった。然し入出渠作業は佐世保の仕事でありその経験が今回は役立った。
尚、余談になるが、長崎三菱造船所が、「武蔵」 建造にあたり、機密保持に
格別の注意を払ったことは有名であるが、三菱側は今回の佐世保の工事におい
ても機密の確保に細心の苦労を重ねている。この経緯については 内藤 初穂
(第32期 航空)等、編の「戦艦武蔵建造記録」に詳しい。

「作業に及ばず
図面での配置の検討、盤木の用意、作業員の割当 、諸々の準備、 そして作業
にかかると、これは大変な仕事だ。明日の朝の艦の到着までになんとしても仕
上げなければならない。徹夜作業だ。然し燈火管制下のかすかな灯りのもとで
は、作業が進まない。第一に危険だ。「照明をつけて作業をさせたい。灯火管
制の解除をお願いしたい」と造船部長に申し出る。勿論造船部長だけでは決定
出来ない。工廠長へ、或いは鎮守府長官まで具申がいったのかもしれない。や
がて「了承 」となる。明るい灯火のもとで盤木の整備がすすむ。 「大和」を
少しでも早く戦場へ戻すのだ、という使命感が作業をはかどらせる。幸い空襲

も無く工事は順調にすすむ。そして、漸く空が明るくなり始め、作業が八分ど
おり済んだ頃だ。突然「作業に及ばず」、即ち、直ちに作業を中止せよとの司
令が現場に届いた。今になって此の指示とは、さては「大和」は沈没したのか
。張りつめていた気が一気に緩み、疲れがどっとでた。そあと、漸くにして並
べた「大和」のための盤木をバラし、小型艦艇用に並び替える作業が情けない
思いで続けられた。

戦傷無惨
8日の朝、「大和」と共に戦場へ向かっていた「冬月」「雪風」が「大和」に
かわって入港、つづいて昼過ぎに「初霜」。その姿は、いずれも満身創い、刀
折れ、矢尽きたという様相で、闘いの跡を偲ばせている。夕刻、薄暮にかから
んとするころ「涼月」が漸くたどり着いた。まさしくたどり着いたといううべ
きであろう。「涼月」は艦の前部が完全に破壊され沈没寸前にあったが、後進
の姿勢をとり、後半部を前に、上甲板が燃え続けるまま、人力操舵により、後
進強速9節で、闇の夜を北上し、今やっと佐世保にたどり着いたのだ。火災の
煙をあげながら艦が岸壁に近づいたとき、既に帰投していた「冬月」 「雪風」
「初霜」 の乗組員や 、船渠 の作業員が驚異の眼でその姿を迎えた。やがて
大歓声が港中にわいた。たしか、その「涼月」をブイに係留をしようとすると
、とたんに、艦首が沈みはじめた。 そこで急遽 、 船渠 の扉を開き、曳船に
抱きかかえらるようにして船渠に引っぱっりこまれた様に思う。排水の始まっ
た船渠の盤木の上に、「涼月」の疲れた姿がやっと落ちついた時、船渠をかこ
んだ人々の顔に安堵の色が浮かんだことはたしかだ。第二艦隊の精鋭のうち、
生きて帰ったもの、この4艦、これが天一号作戦の終焉であった。疑問終戦後
、「大和」 の記録を読む度に、私をとらえて離さない疑問がある。戦記資料
では、「大和」 の沈没は 昭和20年4月20日 14:23 対空戦闘2時間
余の後 とある。 だが私達はこの時刻の頃から 「大和」 入渠準備作業を始め
、徹夜で作業をを続行した。そしてあくる朝、「作業に及ばず 」、つまり 大
和沈没 を知らされたわけだ。この時間の差は何であろうか。 ここに空白の1
5時間 がある。当時の戦況は、戦記、例えば 吉田 満著「戦艦 大和 」によ
ると7日払暁、『大和』 大隅海峡通過して直後より、米軍機の追尾をうける
。以降その行動は米軍にくまなく把握される。一方軍司令部にも通信を密にす
る。1232 敵機 百機以上の攻撃始まる。最大戦速27節を振り絞り、左右
に回避を続ける。 1300頃か 魚雷命中、すべて左舷に5本。傾斜計指度上
昇し始む。 右舷防水区画に注水。そして、以下は私の推測だが1330頃 軍
司令部は 「大和」に応急修理の為、佐世保に回航を指示。 一方佐世保工廠に
修理の手配を命ず。(1400頃 佐世保工廠、造船部、第7船渠準備打ち合
わせ)1423 軍司令部 『大和』 沈没 を知る。 然し、海軍は 『大和』
沈没は公表できない。軍機事項である。佐世保工廠の準備は、頬かぶりのまま
続行させる。1639 軍司令部、特攻作戦の中止を発令。然し、此の指令が
現地、関係機関に届くまでには、かなりの時間を要した筈だ。
翌8日朝 損傷駆逐艦の佐世保入港を控え,やむを得ず工事の変更を 即ち 「作
業に及ばず」の発動。となると、15時間の空白は、軍司令部の面子を立てる
ことの他の何物でもない。それならば、あの15時間のあいだ、無駄に費やさ
れた技術士官や、工廠作業員の徹夜の努力、敢えて言えば愛国心の凝結は何の
ためだったのであろうか。終戦50年の今となると、当時の軍上層部に対する
腹立たしさは忘却の彼方に消えていったが、私にとって、幻の戦艦 「大和」
を見る機会が永久に失われた無念さと、戦火の余燼の煙を漂わせながら、後向
きに、ヨタヨタと入港してきた 「涼月」の勇姿を忘れることは出来ない。
終戦記念日の今日、佐世保での日々を思い出しながら、この一文を綴る。

1995−8−15
( NATO会報・平成7年版より)