退職生活
1998年に退職して完全に自由の身になってからの最大の楽しみは何と言っても旅行である。 とはいえ年金生活者にとってぜいたくはできない。 最初の年は、新しい生活を模索し、サラリーマン生活からの転換を図り、規則正しい健康な生活パターンを定着させることを第一目標とした。
何をして暮らすか、生活費にどのくらい要して、どのような時間配分で生活が送れるのか、在職中は考えも及ばない。 よく、定年後の生活プランを在職中から早めに立てておくようにといった忠告が、新聞・雑誌などに出ている。 しかし、実際の生活ががどんなものか、そうなって見ないと分からないものだ。 在職中から定年後の生活準備をしておくなどということは、よほど暇な職場の話ではないかと思う。
ついでに言っておくと、退職後にやりたいことは、子供の頃にやりたいと思ってできなかったことの中にあるという永六輔の意見に賛成である。 かれがTV番組で、子どもの頃にしたいと思っていたことの記憶を掘り起こして書き並べると、必ずその中に老後にするべきことが潜んでいると、熱弁をふるっているのをたまたま聞いた。
自分自身の経験に照らし合わせてみて、妙に納得の行く説であった。 長い職業生活で中断されていた青春時代の関心事は、人生の伏流水のように心の底を流れているので、それを掘り当てよということだろうと思う。 在職中は、仕事のことが頭を覆っているので、その延長でものを考えがちで、伏流水の存在に考えが及ばないし、だいたい感度が鈍っている。
昭和31年に1年浪人して船舶工学科に入学した。 浪人中は、まともに勉強しなかった。 漱石や白樺派の日本文学、トルストイ、ツルゲーネフ、ドストエフスキー、などのロシア文学を読み漁り、毎日のように六甲に登った。
高等学校時代はサッカー部にいたが、大学では山岳部に入った。 西宮から通っていたので、中百舌鳥までの通学に2時間近くかかり、サッカーをやる時間がないと諦め、浪人時代の続きで山を歩くことを選んだのである。 船舶工学を選んだのも船が好きというよりも、食ってゆけそうだと睨んだからであり、山岳部に入ったのも、サッカーには時間が取れないと睨んだからである。 全くいい加減な判断であったが、40数年たった今思い返してみて、何の悔いもないのが不思議である。 人生は、その人に合ったように展開するものである。ただ感謝あるのみである。
そんなことだから、学生時代から決して立派な山屋とは言えようもなかった。 岩登りは不得手で、スキーも下手くそであった。 ただ荷物を担いで歩くのみであった。 シールをつけて荷あげし、スキーを担いで下りて来ると笑われた。
就職先は、瀬戸内海の因島であった。 造船屋の道を選んだのだから当たり前とはいえ、山が遠くなった。 それでも、先輩の小野ちゃんと、正月休みに大山に行って、持参のテントが雪の重みでつぶれてしまったことや、久代君と正月に八甲田にスキーに行って転びに転んで雪まみれになったことや、夏に一人穂高から槍を経て双六に下り、笠ヶ岳に向かう途中、大勢の女性を引き連れた日置君に出合ったことなど、時々山に入っていた思い出はある。 それも、結婚した頃からふっつり止まってしまった。 仕事に追いまくられ、山も日々に疎くなったのであった。爾後40年間、山は伏流にもぐりこんでしまった。
そんなわけだろうか、退職し会社生活の重圧から開放されるやいなや、伏流が湧き出るように山歩きが始まった。 もっぱら浪人時代と同じく六甲や北摂の低山歩きである。 ぶよぶよに太った体もおかげで1-2年もすると10kgほど減って(実はまだ標準体重に比べると10kgほど「減り代」は残っている)、歩くのもだいぶ楽になった。
日帰りの山歩きはほとんど一人である。 家内と出かけることもあるが、私は、折角の楽しみを独り占めするのは悪いし、彼女の健康のためにも良かれかしと思って誘う。 家内は、私が一緒でないと亭主も寂しかろう、ついて行って手綱をしめていないとどこへ迷い込んでしまうか分からないと、親心からついて来るのだそうだ。 互いに相手に恩を着せるのである。
彼女は、なだらかな上り下りならば1日15kmくらいが限度で、少しのぼりがきついと極端にピッチが鈍る。 そんな調子だから、なかなか高い山に登ることにならない。 日本のアルプス、本物のアルプス、さてはヒマラヤと、頂上は無理でも、せめてその威容を間近に仰ぎ見たいという気は起こるが、実現しそうにない。
在職中の縁で、退職してからも造船学会の委員や理事を引き受けたり、勉強会を主催したり、結構便利に使われている。 退職して雑事から開放されたと喜ぶまもなく、また新しい雑事が、水垢のように身にまとい始めた。
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クライネシャイデック越のアイガー
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考えて見れば、私にとって山は、日常性の投影である。 知的好奇心につられて手を出す諸般の世事と山はその対極にある。 世事にかまけているときには、山に行きたくなり。 山に行くとまた机に戻りたくなる。 かくして、私は常に中途半端な山好きということになる。 しかし、ありがたいことに、山はどんな登り方をしようと受け入れてくれる。
アルプス行き
そうこうしながらも、せめて本物のアルプスくらい見ておきたいものだと2002年の9月にアルプス地方を家内と二人で旅をした。
初めて行くのだから、アルプスの3大北壁は全部見ておきたいと思い、Grindelwaldに5泊、Chamonix4泊、Zermatt4泊、St.Morizt3泊、Eggishorn1泊、これらの拠点間を移動する途中Luzern, Montreux, Bern, Zurichなどの都市にも立ち寄った。 22泊24日の旅である。
航空券は「悟空35」というJALの正規格安航空券の一番安いものを購入。 ホテルはinternetで一つ星から三っ星の安宿を予約。 航空券の値段が一段下がる9月3日に出発。
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グランドジョラス
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スイス国内交通はSwiss Card(Swiss PassとSwiss cardがあり、前者は移動が多いと有利、後者は滞在型に有利)を使用。 費用は二人で92万円。 このうちの6割は、航空券と当地での交通費(登山列車、ロープウェイ、ケーブルカーが四方に通じているが、値段は結構高い)。 残りの4割が宿泊代、食費、その他であった。
9月に出発したのは成功であった。人は少ないし、Hotelは安い。天気はよい。 スイスのホテルは、清潔・安全で一つ星で十分。
アイガー北壁のつけ根を横断するEiger trailを歩いてきた。 ロープウエイから見るグランドジョラスも、モンタンベールから見上げるグランドジョラスもすばらしかった。
マッターホルンはせめてヘルンリのヒュッテまで行きたかったが、家内に引き止められて、シュヴァルツゼエーから1時間ほど登ったリフト小屋の終点の小高い丘までしか行けなかったのが心残りではあったが、どこを歩いてもマッターホルンの鋭角的な岩峰を仰ぐことができた。
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学生時代(45年前)は、いまだ貧しく、個人でスイスに旅行できるなんて思いもよらなかった。 それが実現したのである。
昼休み船舶棟の横に山岳部の連中が集まる。 どろどろ、よれよれの白衣姿の応化のみんな、そこへ今は亡き西ちゃんがふらりと漂うようにやってくる。
西ちゃんが夢見るように熱っぽく、アイガー、マッターホルン、グランドジョラスの北壁を語る、その笑顔が忘れられない。
ガストン・レビューファの「星と嵐」;走馬灯のように浮かぶ思い出とともに実物の景色を目の当たりにして感慨無量であった。 そしてアルピニズムの何たるやを悟ったような気がした。
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リッフェルアルプ
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マッターホルン |
アルプスの山には人を拒絶するような威厳がある。 それに挑戦する精神がアルピニズムであり、一つの時代精神として理解できる。
帰国後、ウインパーの「アルプス登攀記」を読んだ。 山は山でそっとしておきたいと思うほど、人間の自然に対する横暴が自覚される現代と比較して、約140年前のアルピニズム黎明期の時代精神はどんなものであったかを知りたかったからである。
ウインパーの山を登る姿には何の翳りもない。 人間の力を信じて、何の疑いもなくただ登るだけである。 ヴィクトリア時代の英国の勢いが感じられる。
アルプスに比べると日本の山はやさしい。 今となっては、私の山好きは、決してアルピニズムとはいえない。 あえて言うならば、芭蕉の境地のほうが求めるところといえるかもしれない。
終わり
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