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没後70年あまり経過した、明治大正昭和を代表する高名な画家の、謎の空白の5年間を、文化・歴史にこだわりのある造船技術者(達)が、次々と発見した作品群によってつまびらかにしていった。
ともすれば技術論に傾斜しそうな当フォーラムにあって、美術館の専門家も称賛するほど質の高い、美術史の1頁を補完し書き加えた、内容の濃い活動の発表であった。
同時に、戦時下の機密保持厳しい記録写真等皆無に近い時代にあって、戦中造船史にも、技術論の裏付けに十分有効な映像記録を補完追加する意義ある発表でもあった。
謙虚に語られたが、美術史の専門家である県立美術館の学芸員にさえ「美術史の空白を埋めた快挙」と言わしめ、しかも「技術屋らしい、これまでの美術史にはない角度の特徴を持って・・・」と絶賛された活動の話である。
明治の巨匠として国内で黒田清輝画伯が余りにも有名であるが、「吉田博」は幾度となく万国博覧会で入選するなど明治の時代にあっても、海外でも著名であった。
油彩水彩の風景画に限らず、江戸の浮世絵を遥かに凌ぐ、刷り師泣かせの多色刷り木版画は、つとに有名で、英王室ダイアナ妃の書斎をも飾っていたという話である。 しかし、このあまりにも著名な巨匠には、没後(1950年)70年余り経ても埋まらない空白の5年があったことは、石津さんも初めは知らなかったようである。
吉田画伯は、風景画を得意としたが、直線を巧みにこなし、まるで写真のごとく精緻な絵を描くことでも有名であった。 彼は、戦時下の戦時標準船のマスプロダクションの一部を絵として記録していてくれたのである。 造船工業史的にも、十分有効な、極めて高い価値を見出すことができる写真以上の記録ともなったのである。
石津さんたち、学徒動員に応じた岡山から姫路に至る旧制中学校/女学校を訪ね、吉田画伯が寄贈した作品を見つけ出し、彼の作品として特定していったことは、戦中学徒動員の社会学的側面を掘り起こしたとも言えそうである。
ことのきっかけは、旧播磨造船、石川島播磨重工相生造船所、アムテックへと引きつがれてきた相生工場で、学徒動員された中学生や女学生の工場内風景を描いた「博」と銘に入った一枚の絵が、倉庫の奥から出てきたことである。 戦時下と思える動員された学徒を描写した絵ではあるが、「只者の作では無い」と石津さんは気になっていたことが、埋もれてしまう運命にあった巨匠の作品を世に明らかにする発端であった。
第1演題 「改E型戦時標準油槽船の ・・」は、一度造船学会で発表されたが、今回石津さんから、第1演題、第2演題はセットで、とのこだわりの指定があった。 後に発掘過程で次々と出てきた「博」画伯の絵が、E型船建造の風景を含む多数の記録写真的な意味をもつ作品であったからである。
この戦時下の、E型船建造は、約2年の間に167隻建造、最大月産14隻を記録し、経験工の指導の下、受刑囚や学徒動員を主体に建造し成し遂げた記録である。 海軍主導、国内4箇所(播磨相生 三菱若松 川浪香焼 石川島東京)で進められ、当地では本工場の対岸に船台を2本建造し、同一定盤同一ブロックの繰り返し生産で成し遂げられたとのことであった。 この思想は現在の大島造船に引き継がれていると、会場から補足意見があった。
また、艉進水が常識ではあるが、戦時下で 艏進水で据え付けている極めて珍しく貴重な建造風景も出てきた。 戦時下で造船の諸先輩が柔軟にあらゆる知恵を絞って建造に励んでいたという貴重な断面を見せつけられた記録であった。 先の黒田画伯と同様に、広報担当としての従軍画家であったからかもしれない。
その後の展開は、発表資料を読んでいただければご理解いただけるが、5年の空白を埋めただけでなく、新たに26もの多くの作品を歴史の表舞台に登場させる結果となったのである。
絵画芸術にも造詣の深い、石津さんほかアムテックの皆さんの、技術屋らしい一徹な探求心が、没後70年も経過し、もう不可能と思われていた、明治の巨匠の空白期を、26作品を次々発見することで、日本美術史にも貴重な足跡を残したことは、専門家も称賛を惜しまない快挙であり、誇りに思うところである。 文化的側面から改めて造船の歴史を考えさせられた、有意義な講演であった。 石津さんには、海友フォーラムで発表頂いたことに改めて謝意を表する次第である。
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