6 「パレスチナ問題」の歴史 (前編)

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Fig.13 エルサレム、ダビデの塔

6.1 「シオニズム」の勃興         (19世紀−第2次大戦終)
6.2 イスラエル建国宣言、第1次中東戦争(パレスチナ戦争)
  (アラブ諸国が開戦)              (1948−1949年)
6.3 第2次中東戦争(スエズ戦争)(イスラエル、英、仏が開戦)(1956年)
6.4 第3次中東戦争(イスラエル開戦)            1967年)
6.5 PLO(パレスチナ解放機構)活躍を始める     (1964−1970年)
6.6 第4次中東戦争(エジプト、シリアが開戦)       (1973年)
6.7 アラブ側「石油ショック」戦略を発動         (1973年)
「パレスチナ問題」の歴史(後編) この下方にエルサレム市街図を示す。


下図(Fig 14)は1948年、国連のエルサレム2分案。1967年、イスラエルが東側も占領、今後どのように治めるかが和平交渉最大の課題。
























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6.1 「シオニズム」の勃興(19世紀末−第2次大戦終)
 フランス革命後の1791年、フランス在住のユダヤ人はゲットーから解放され、
初めてキリスト教徒と同等の市民権を与えられたが簡単に幸福は訪れなかった。
欧州各地で、民衆間に反ユダヤ主義が育ち始め、1880年頃から、ロシアを中心と
して東ヨーロッパで「ポグロム」と称する激しいユダヤ人迫害が発生した。19世
紀後半から第二次大戦勃発までの間、東ヨーロッパ・ユダヤ人、約 400万人が米
国に難を逃れた。彼等と既移住のユダヤ人は互いに協力し合って、成功し、経済
的・政治的に米国政府を動かす大組織を創るまでに至った。現在、超大国アメリ
カが最大限にイスラエルを援助するのは彼等のお蔭である。1894年、フランスで
陸軍参謀本部勤務のユダヤ人、アルフレッド・ドレフュース大尉が、個人的悪意
からスパイの「濡れ衣」を着せられると云う事件が起きた。こう云う事件は「フ
ランスでは起らない」と思われていただけに、ユダヤ人の衝撃は大きく、「もは
や、自国を作らなくては....」との声が高まった。1896年、オーストリアの
ジャーナリスト、テオドール・ヘルツル著「ユダヤ人国家」が出版され、これに
同調するかのように「ユダヤ人国家建設運動」が開始された。エルサレムの古い
名称「シオンの丘」に因んで、この運動を「シオニズム」と呼ぶようになった。
当時、パレスチナはオスマン・トルコ帝国が領有、少数のユダヤ教徒も居たが、
1500 年間に亘る、イスラム、キリスト、ユダヤ3宗教の共同の聖地であった。そ
こへ、「ユダヤ人国」を建国するなど、「土台、無理な話」であった。「住民を
無視する西欧諸国のエゴ」が罷り通る時代であった。それでも、当初のユダヤ人
移民はオスマン帝国の許可をえながら進められた。そして第一次大戦では、オス
マン帝国はドイツ、オーストリア側に付いた。英国は印度防衛とアラブ産油利権
獲得のため、中東の植民地化を図り、1916年、メッカの有力者シャリーフ・フセ
インと書簡を交換し、戦勝後、アラブ帝国の独立を約束し、「アラブの反乱」を
指示したのであった。一方、1917年、英国外相バルフォアは、戦勝後のユダヤ人
「ナショナルホーム」樹立を認めることを宣言した。「バルフォア宣言」と云わ
れている。このように、英国はアラブ、ユダヤ双方に対し、調子のよい約束をし
ながら、戦争が終結すると、パレスチナ地方を「国際連盟委任統治領」として自
らが支配してしまった。正に三枚舌外交であった。この「英国のエゴ政策の拙劣
さ」が、その後、永続する「ユダヤ人とアラブ人の闘争」、いわゆる「パレスチ
ナ問題」の原点となったことは間違いない。 英国委任統治時代に入っても、ユ
ダヤ人は「ナショナルホーム」樹立の約束を盾にパレスチナへの流入を続けた。
一方、自分達の将来に不安を抱くパレスチナ人はますます激しく反発した。英国
政府は当初、両者を手なずけようと努力したが、やがて、石油権益を保護するた
めアラブ側の味方に転じた。また、「シオニスト組織」は世界のユダヤ人から寄
付を募り、次々とパレスチナの土地を購入し始めた。そしてパレスチナ人は各個
撃破的に土地売渡しに応じたので、1937年までに、パレスチナの約6%の土地がユ
ダヤ人に渡った。これが「我々は正当に土地を入手した」とシオニストを勢付か
せたのであった。第一次大戦後、「ナチズム」が台頭した。「ドイツの純血を守
るためユダヤ人をドイツ社会から排除すべし」との思考から、当初、ナチスはユ
ダヤ人のパレスチナ移民に賛成した。ヒトラーが権力を掌握する前年の1932年か
ら1936年まで約25万人のドイツ系ユダヤ人がパレスチナへ流入した。彼等の資本
と技術により、パレスチナのユダヤ人社会は急速に発展したのであった。1920年
代、パレスチナでは早くもユダヤ人、パレスチナ人の武力衝突が発生した。第 2
次大戦では「シオニスト」は連合国側兵士とし出征するだけでなく、ユダヤ人部
隊を組織し、独立後に備えて「軍事力の保有準備」をした。アメリカ参戦の翌年
1942年、ニュヨークに「全米シオニスト組織」が集合、「ビルテイモア・プログ
ラム」として「戦後、ユダヤ人国家樹立」宣言を採択した。これを契機に、「ユ
ダヤ社会組織の中心」はヨーロッパからアメリカへ移ったのである。そして、大
戦末期にはイギリスと縁を切るため、「シオニスト・ゲリラ」の英国攻撃が開始
された。メナム・ペギン、イッハーク・シャミール、いずれも後年、イスラエル
首相になった人物達の名がゲリラの中にあった。 そして、ヨーロッパ大陸の第2
次大戦戦場では、ナチスの「ホロコースト」大虐殺が始まっていた。全く手の打
ちようがなかった。大戦が終わった時、世界ユダヤ人口の1/3、約600万人がナチ
スにより抹殺されていたのであった。                   

6.2 イスラエル建国宣言、第1次中東戦争(パレスチナ戦争)
   (アラブ諸国が開戦)(1948-1949年)          
 大戦が終わると、前述のとおり、「シオニスト」達はパレスチナから英国を追
出すべくゲリラ攻撃を再び開始した。困却した英国政府は1947年、パレスチナか
らの撤退を発表した。「シオニスト」の狙い通りに事が運んだのであった。英国
は解決策を国連に一任した。1947年11月29日、国連総会はパレスチナの分割決議
案(賛成33、反対13、棄権10(イギリスを含む))を可決した。「シオニスト」が所
有していた土地はパレスチナの7%に過ぎなかったが、 国連決議案では57%がユダ
ヤ人に割当てられた。アメリカのお蔭であった。「シオニスト」は当然、決議案
を受諾したが、パレスチナ人およびアラブ諸国が受入れる訳はなかった。この時
点は、パレスチナは未だ英国の委任統治領、要衝はすべてアラブ軍( 4万)の手中
にあり、また、国境周辺には、アラブ6ケ国、計8万の軍団が、それぞれ自国のア
ラブ人を保護すると云う名目で布陣し、四方からパレスチナを包囲していた。英
軍は手出しをせず、アラブ側の暴行を黙認し、内心では無政府状態の中でユダヤ
人が圧倒され、国連決定が不発に終わることを望んでいたようであった。ヘブロ
ンの街は既に破壊され、その近郊に 400人のユダヤ義勇兵が立籠っていたが、連
日のアラブ機甲部隊の攻撃を受け全滅した。白旗をもって出てきたユダヤ兵士達
はその場で射殺され、地下室へ退避していた女性達は手榴弾で爆殺された。その
時、エルサレムの新市街地はまだユダヤ人の手中にあった。アラブ軍は「兵糧責
め」作戦を立て、市街を包囲した。テルアビブからエルサレムに通じる道路はア
ラブ軍の保塁で監視され、エルサレムの救援を図るユダヤ側は幾度もダイナマイ
ト特攻隊攻撃を仕掛けたが効果は上がらなかった。ユダヤ側には少数の旧式飛行
機はあったが搭載する爆弾がなかった。それよりも、小銃も機関銃もなかった。
ユダヤ人達は必死であった。アメリカ民間航空会社から輸送機 1機をチャーター
し、チェコスロバキアから、小銃 200機関銃40を買付け、米人飛行士は闇夜の飛
行場に着陸を強行、ゲリラ隊は陽動作戦で英軍、アラブ軍の注意を反らし、察知
されることなく武器入手に成功した。一方、小銃4300,機関銃200を積んだチャー
ター貨物船がテルアビブの港外に着いた。そして、これらの武器で武装したユダ
ヤ義勇軍が178台のトラックに分乗、550トンの食糧を持って、エルサレム救援に
出動したのであった。激戦の末、エルサレム新市街は1948年 4月13日、ついにア
ラブ軍から解放された。建国宣言の日に、古都エルサレムをユダヤ人が掌握して
いることが、イスラエルにとって最重要なことであった。この激闘で20,000人の
ユダヤ人男女が建国のために命を落した。                 
 そして、英国の統治が終わる1948年 5月14日、テルアビブ美術館、臨時国家会
議の席上で、「ユダヤ人国家イスラエルの成立」が宣言された。「イスラエル」
とはヘブライ語で「神の戦士」と云う意味である。記念すべき建国の日、最後の
英兵が引揚げた午前0時を期して、計8万のアラブ軍の進撃が始まった。北方から
シリア軍機甲部隊 2万がヨルダン河を渡って侵入、イラクはヨルダン河のユダヤ
発電所に向かって砲火を開く。イラク軍2万 5000、進撃開始、ヨルダンのアラブ
軍はエルサレム、ユダヤ人居住地を砲撃した。 南から重砲を持つエジプト機甲
部隊2万5000が、ガザ、テルアビブへ、 またベルシェバへ向かって進撃を開始し
た。エジプト空軍はテルアビブを爆撃した。アラブ側からすれば「ユダヤ人を絶
滅し、イスラム教を守る聖戦(ジハード)」が始まったのである。これに対し、イ
スラエルの人口は65万人、その1/5に近い 12万人が男女を問わず防衛に当った。
この時代は第 2次大戦直後、世界には軍用機が余っていた。チェコスロバキアは
メッサー・シュミット109戦闘機 25機をイスラエルへ売渡した。戦いが始まって
暫く経った1498年夏、英国のある民間飛行場にボファイター爆撃機が 4機、炎天
下に翼を並べていた。映画カメラマン、ニュージランドの軍服を着た人々が集ま
っていた。やがて爆撃機は次々に離陸する。ニュージランド映画会社の戦争映画
のロケ撮影の筈であった。しかし、飛び立った爆撃機はいつまでたっても帰って
こなかった。この 4機はイスラエル情報部工作員が盗み出したもの、飛行機はポ
ルトガル経由、イスラエルに到着していたのであった。英国当局は悔しがったが
後の祭りであった。工作員はまた、アメリカからB-17爆撃機4機を購入、1機は途
中で官憲に拿捕されたが、3 機は無事テルアビブに到着した。これらの爆撃機は
到着後直ぐ、メッサーシュミット109 戦闘機の護衛の下、カイロ、ガザ、を空襲
した。この一撃で制空権は確保された。これらの飛行機は、また、敵機甲部隊を
激しく襲撃、アラブ軍は戦意を失ない、イスラエル地上部隊は守勢から、一挙に
大攻勢に転じたのであった。そして誰も予期しないことが起こった。12万のユダ
ヤ人男女は手製の小銃、迫撃砲、地雷を武器として、アラブ軍の機甲部隊と戦い
、年を越し停戦が成立した時、占領地区はパレスチナの 77%、国連の分割案で指
定された地域を遥かに超えるまでになっていた。かくしてイスラエルは生き残っ
たのであった。彼等は自力で建国をかちとったのである。イスラエルの死者は
6500人であった。この戦争を「第1次中東戦争」又は「パレスチナ戦争」と云う
。 停戦時、ガザ地区にはまだエジプト軍が、エルサレムの東側にはヨルダン軍
が残っていた。よって、パレスチナはイスラエル、エジプト、ヨルダンの 3国に
分割された格好となった。「パレスチナ人の国」は何処にもなかった。70万人の
パレスチナ人が難民となってヨルダン、レバノン、シリア、エジプト等の周辺国
へ流入した。難民化したパレスチナ人の帰還をイスラエルは認めず、パレスチナ
人は望郷の念を抱いたまま放浪する運命になった。こうして、パレスチナでは少
数派のユダヤ人が多数派に変身、多数派のパレスチナ人が少数派に転落した。「
シオニスト」の夢が実現、パレスチナ人にとっては「悪夢の始まり」であった。

6.3 第2次中東戦争(スエズ戦争)(イスラエル、英、仏が開戦)
   (1956年)
 イスラエル建国の1948年は米国大統領選挙の年に当たっていた。トルーマン大
統領はイスラエル成立宣言のわずか11分後に「イスラエル承認」を発表した。こ
れはユダヤ市民の多いニューヨーク州の選挙を睨んでのことであった。この秋、
トルーマンは大統領選挙で辛勝したが 600万と云われるユダヤ票がなければ勝利
はなかったであろうと云われた。こうして米国政府はイスラエルの味方になって
行ったのである。米国政府がイスラエルの「諸要求に甘い」由縁である。   
 さて、アラブ各軍の敗退はアラブ世論に大きな衝撃を与えた。若い世代は敗戦
の原因を「アラブ支配階級の腐敗」によるものとし、「エジプト改革の必要性」
を唱え出した。 そうした主張の「自由将校団」にアブドル・ガマル・ナセル 
(1918-1970 )がいた。この「自由将校団」は1952年にクーデターを決行、エジプ
ト王制を倒してナセルが権力を掌握した。ナセルはスエズ運河地帯のエジプト主
権を回復させるため、英国へ運河返還を求めたが「エジプトは弱体国、運河の安
全を保障できない」との理由で拒絶された。ナセルは、それでは強くなろうと武
器の購入を図ったが、英国、米国、フランスは、イスラエルを刺激するものとし
て拒絶した。英国はエジプトが弱体であるからとの理由で運河返還を拒絶し、一
方でエジプト軍が強くなる道を塞いだのであった。これを見て、1955年ソ連はエ
ジプトに兵器を供給した。これは、クレムリンの新しい第三世界戦略の始まりで
あり、米国への牽制であった。そこで、米国、アイゼンハワー政権はソ連の武器
供与戦術に対抗し、大規模な経済援助を口実に、エジプトを西側陣営に引留めよ
うと画策していた。一方、ナセルはソ連が武器供与を突然停止することを懸念し
、「中華人民共和国政権」を承認、いざと云う場合、中国からの武器輸入を考え
たのであった。米国はこれを不満とし、エジプト援助計画は中止されてしまった
。一方、英国はフランス、イスラエルと共謀し、軍事干渉によってナセルを打倒
しようと考えた。フランスは、当時勃発したアルジェリア独立運動をナセルが支
援しているものと疑い、ナセルを打倒したかった。イスラエルはソ連製兵器でエ
ジプトが強大になる前に先制攻撃をかけたいと望んでいた。こうして 3者の意見
が合った。1956年10月29日、突如、イスラエル軍はエジプト領、シナイ半島に侵
入、運河地帯へ進撃した。時を合わせて、英、仏連合軍空挺隊が運河地帯に降下
した。アイゼンハワー、米国大統領はこれに激怒、ソ連は侵略行為の即座停止と
撤兵を求めた。聞き入れない場合は、ミサイル兵器の使用も辞さないと英仏を脅
迫した。こうした米ソの共同反発を受けた三国は撤兵した。何故、アイゼンハワ
ーが激怒したか?。この理由は、ちょうどこの時機、ハンガリーで民衆の反ソ蜂
起が起こっており、アイゼンハワーは世界の目をハンガリーに集めて、ソ連を牽
制しようとしていた。その矢先、スエズ運河で戦争を起したので、世界の注目は
中東に集中、それをよいことに、ソ連は戦車部隊を首都ブタペストに突入させて
ハンガリーの反乱を押さえ込んでしまったのであった。当時、米国は大統領選挙
直前、だが、アイゼンハワーは共和党推薦の大統領候補、すでに国民的英雄であ
り、ユダヤ人の支持がなくても再選を危ぶまれるような立場ではなかった。大統
領がイスラエルの行動を止めたことは、米国・ユダヤ人とすれば苦い経験であっ
た。その後、米国ではユダヤ・ロビーの組織化に拍車がかけられ、政府に対する
発言は益々強くなった。一方、中東における英国、フランスの威力はこれを契機
に無力化し、今後の国際舞台の主役は名実共に米国とソ連に交替した。    

6.4 第3次中東戦争(イスラエル開戦)(1967年)      
 エジプトの軍事的敗北は、米ソの支援により政治的勝利に変った。ナセルの中
東世界における評判は急速に高まった。そして、1958年、シリアとエジプト 2国
間に「アラブ連合」が成立した。1958年、イラクで軍部のクーデターがあり王政
が崩壊、1962年、アルジェリアからフランス撤退。アラブ民族主義は上げ潮を迎
え、その先頭にナセルが立った。しかし、1961年、シリアが連合から離脱、また
、エジプトは北イエメンの内戦に出兵し、出口のない長期戦に国力を消耗し、シ
リア、イラクでは反ナセルの動きが拡がり始めた。そこへ、1967年、イスラエル
が第3次中東戦争を引起したのであった。                
 開戦に先立ち、「イスラエル軍がシリア方面に集結中」の情報がエジプトへ伝
えられた。ナセルは「エジプト軍のシナイ半島集結」を命じ、シナイ半島の緊張
は高まった。さらに、エジプトはアカバ湾とチラン海峡の封鎖を宣言した。当時
、イスラエルはエジプトから、スエズ運河の通行を拒否されていたから、アカバ
湾の封鎖宣言は、イスラエルにとっては戦争行為に等しかった。1967年6月5日朝
、イスラエル空軍のミラージュ戦闘爆撃機が超低空でエジプト空軍基地に殺到、
エジプト空軍機 300機を瞬く間に地上撃破、同時刻、シリア、ヨルダンの空軍も
撃滅され、昼頃までにアラブ側の空軍は全滅した。遮蔽物のない砂漠の戦闘で、
制空権を確保した後、イスラエル軍の電撃作戦が展開された。フランス製最新鋭
戦車軍団が猛スピードでアラブ軍に襲い掛かった。6月11日まで、6日間で戦闘が
停止された時、エジプトはガザ地区とシナイ半島を、ヨルダンは川の西岸地区全
域を、シリアはゴラン高原をイスラエルに奪われていた。あまりの酷い敗戦にア
ラブ側は交渉する余裕も失っていた。「和平を求めず、交渉せず、承認しないと
」云う「3っのノー」がアラブ首脳会議の決議であった。この敗戦のショックで、
ナセルは生ける屍となり、3年後の1970年に死去した。           
 ところで、この戦争までイスラエルはフランスから武器供与を受け、空軍の主
力機はフランス製ミラージュ戦闘爆撃機であった。ミラージュとは「蜃気楼」と
云う意味である。なお、フランスから武器技術教育を受けている間に、頭のよい
イスラエル人は核兵器製造技術を習得し、自力で核の実戦配備を可能としていた
。凄い早業である。ミラージュのアラブ奇襲が余りにも派手であっため、当時の
フランスのド・ゴール大統領は以後、イスラエルへの武器供給を停止した。フラ
ンスは1962年のアルジェリア独立以来、アラアブ諸国と外交紛争はなく、石油問
題を考えると、武器輸出のことでアラブの不興を買いたくないと考えたからであ
った。このようにして、イスラエル軍の装備は米国製へと切替えられた。空軍の
主力機は、当時の最新鋭米国製、F4ファントム戦闘爆撃機に入れ替わった。ファ
ントムとは「幽霊」を意味する。「蜃気楼」が「幽霊」に化けたのであった。

6.5 PLO(パレスチナ解放機構)活躍を始める(1964−1970年)
 戦争に敗れたアラブ世界はナセルに代わる英雄を求めていた。そこに現れたの
がパレスチナ・ゲリラの指導者ヤセル・アラファトであった。アラファトは、も
はや自力でしか故郷を奪回できないと自覚し、「ファタハ」と呼ぶパレスチナ・
ゲリラを率いて、1968年、ヨルダンのカラメ村付近で、侵攻してきたイスラエル
軍を待伏せ撃退した。損害はゲリラ側の方が多かったが、現場にはイスラエルの
戦車4両、装甲車4両が放棄されていた。最精鋭イスラエル国防軍にゲリラが戦い
を挑み、勝利を収めたと云う話しはアラブ側にとっては「待ちに待った神話、伝
説のネタ」であった。アラファトは忽ちアラブの英雄と報道され、ゲリラ志願者
が殺到した。それ以降、イスラエルを標的としたアラファトの軍事攻撃、ハイジ
ャック等が急増することになった。イスラエルは「テロ」としてこれを糾弾、世
界の人々は「パレスチナ問題」の深刻さを意識するのであった。ところで、 PLO
は1964年に成立した組織、どちらかと云うとアラブ諸国の傀儡組織であったが、
1969年アラファトが議長に就任以来、パレスチナ人民族主義の母体となった。さ
まざまな組織の合同体、アラファトが議長となったのは彼が「ファタハ」と云う
最大派閥を支配しているからであった。 PLOは湾岸で働くパレスチナ人から納税
を受け、また、沿岸産油国は直接アラファトへ資金援助を行った。 PLOの理念は
、「宗教に関わらず、開かれた国家をパレスチナに樹立しようとする」。これに
対しイスラエルの理念は、「パレスチナをユダヤ教徒固有の国とする」である。
両者の説は全くすれ違う。 PLOの当面の目的はイスラエルへの武力攻撃であった
。エジプト、シリアは、イスラエルの報復を恐れて、パレスチナ・ゲリラが自国
領へ入ることを許さなかった。国力の弱いレバノン、ヨルダンはゲリラの入国を
拒否できず、この 2国ではパレスチナ・ゲリラの活動は自由であった。特に、自
国民の半分以上が中東戦争の難民であるヨルダン政府は、ゲリラに対し強い態度
をとれなかった。必定、ゲリラはヨルダン領から出撃したので、ヨルダンはイス
ラエルの報復攻撃を激しく受けた。ヨルダンのフセイン国王は、たまりかねて、
ゲリラを駆逐しようと軍を動かした。すると、劣勢に立ったゲリラを支援するた
め、シリア軍機甲部隊の一部がヨルダンに侵攻した。ここで、アメリカはヨルダ
ン王政を守るため、イスラエルにシリアと交戦する姿勢をとらせた。これにより
シリア軍は撤退し、ヨルダン軍は立直った。立直ったヨルダン軍の攻勢でゲリラ
は大きな損害を受けレバノンへ移動したのであった。この間、多くのパレスチナ
人の命が失われ、この1970年のヨルダン内戦は パレスチナ人の間で「黒い9月」
と語り継がれている。

6.6 第4次中東戦争(エジプト、シリアが開戦)(1973年) 
 1967年の第三次中東戦争の敗北以降、エジプトとシリアは、湾岸産油国の君主
達から資金供与を受け、ソ連製の兵器の再輸入による軍備再建を推進した。米ソ
新兵器の対決が中東で行われようとしていた。1970年、ナセルが死去、長年の副
大統領、アンワル・サダトが後継者となった。そのサダトが世界を驚かしたこと
は、1973年、10月のイスラエルに対する奇襲攻撃であった。サダトは「イスラエ
ルを撃滅する」あるいは「占領地を奪回する」等は考えなかった。本気になって
イスラエルと戦争すれば、相手は核兵器使用に踏切り、エジプトが惨禍を受ける
こと間違いなし。戦争目標は、シナイ半島のほんの一部を奪回し、それを梃にし
て「イスラエルと和平を結ぶ」ことであった。しかし、作戦にはシリアを引込む
必要があり、シリアは本気に、ゴラン高原奪回を考えていたので、サダトはシリ
アに真の戦争目標をうち明けなかった。戦闘開始時間について、エジプトとシリ
アの間に意見の相違があったが調整され、1973年10月 6日、午後2時5分に両軍が
同時にイスラエルに対し奇襲を開始した。アラブ側の攻撃計画は、スパイにより
、すべてイスラエル側へ事前通知されていた。しかし、ゴルダ・メイア首相、ダ
ヤン国防相等イスラエル首脳はこの情報を信用せず、戦争開始の時、イスラエル
軍は非常動員されていなかった。シリア軍はゴラン高原のイスラエル軍に一斉に
砲爆撃を浴びせた。エジプト軍は10万の兵力、1000台の戦車でスエズ運河を渡河
、瞬く間にイスラエル軍防衛陣地を突破、数時間後に橋頭堡を確保していた。イ
スラエル戦車隊が反撃したがエジプト軍のソ連製対戦車ミサイルの前に48時間で
550 台の損害を出し敗退した。しかも、前回の戦争で主役を果たしたイスラエル
空軍はソ連製地対空ミサイルの餌食となり、シリア・エジプト両戦線で開戦初日
だけで50機の損害を出した。イスラエル軍は大敗し、「イスラエル国防軍不敗の
神話」は砕け散った。新型対戦車ミサイルが新鋭戦車に勝つことを世界に証明し
た「武器実験」であった。緒戦に敗北したイスラエル首脳は、米国へ緊急軍事援
助を要請した。しかし、米国は、戦場でのイスラエルのこうした敗北を知らず、
反応が鈍かった。イスラエル側は「国家存亡の事態」と危機感を抱き、米国の援
助がこれ以上遅延するならば、状況の深刻さから、最後の手段に訴えざるを得な
いかも知れないとの通告した。(この戦争からイスラエルは核ミサイルを実戦配
備に移し、人工衛生から確認できるようにしたと云われる。)やっと、事態の深
刻さを理解した米国は緊急援助を実施した。大量の軍事物資がイスラエルへ空輸
された。空輸機の到着をイスラエルの政策担当者は祈るような気持ちで待ち受け
たと云う。そして兵器が到着し、態勢を立て直したイスラエル軍は攻勢に転じた
。エジプト軍の戦争目標は前述のとおり「限定戦争」。スエズ運河の東側に陣地
を構築して立て籠もり、それ以上は追撃しなかった。これを見て、イスラエル軍
はゴラン高原のシリア軍へ攻撃を集中した。シリア軍はエジプト軍が停止したこ
とに驚き、前進を要求したがエジプト軍は動かなかった。イスラエル軍の反撃を
一身に受けてシリア軍はゴラン高原から一掃されてしまった。シリアの再度の要
求でようやくエジプト軍が前進を始めた。地対空ミサイルの射程外に出たエジプ
ト軍に、新しいイスラエル空軍が襲いかかった。 さらにシャロン将軍(現在の首
相 )率いるイスラエル軍はエジプト軍の背後へ、スエズ運河を逆渡河し、スエズ
市を占領した。これは開戦から10日目のことであった。サダトが気が付いた時に
は、エジプト第三軍は完全に袋の中の鼠であった。開戦から16日経った、10月22
日、国連安保理停戦決議 338号が成立した。ところがイスラエルは停戦決議に違
反してエジプト軍への攻撃を止めない。ソ連はイスラエル軍の戦闘停止を米国に
求め、コーカサスで空挺部隊が出撃準備に入った。これに対し、米国は「軍事介
入は許さない」との強いシグナルとして、全世界の米軍を核警戒態勢に置く指令
を出した。結局イスラエルが攻撃を停止して事態は事無きを得たが、中東情勢を
巡って、米ソが核のボタンに手を置いてにらみ合ったのであった。当時の米国大
統領はニクソンであった。この戦争の 1年前、ウオーター・ゲイト事件が起こり
、この戦争の 1年後に大統領を辞任したが、暴露されつつあったウオーター・ゲ
イト事件から米国民の眼をそらすため、米軍を核警戒態勢に置く程の強い措置を
取ったのではないかと云われている。

6.7 アラブ側、「石油ショック」戦略を発動(1973年)
 第 4次中東戦争で「イスラエルの不敗神話」は崩れたが、この戦争による支配
地域の変化はなかった。しかし、この戦争に時を合わせて、 OPEC(石油輸出国機
構)に加盟する6ケ国、同時に OAPEC(アラブ石油輸出国機構)の10ケ国が「原油価
格 21%引上げ、イスラエル支持国には生産量を毎月5%削減する。イスラエルを援
助しているオランダと米国に対しては石油の全面的輸出禁止」を通告した。アラ
ブ産油国は自らの石油を武器として、国際社会に強い影響力を行使しようとの緊
急措置であった。日本はアラブ非友好国に指定され、日本も含めた全世界を「石
油ショック」が襲った。日本を初め、EC諸国も止むをえず「アラブよりの方針」
を明らかにし、開発途上国の多くもイスラエル批判に転じた。そして、イスラエ
ルは孤立した。アラブ産油国の戦略は効を奏したのであった。「オイルシヨック
」が各国経済に与えた影響は大きく、日本は何とか自力でこれを克服したが、共
産圏の「石油を持たざる国」にも飛火し、これが1980年代、東欧社会主義諸国の
経済破綻の引き金になった。 アラブには膨大なオイル・マネーが流入し、急速
な開発ブームが起きた。けれども、社会の歪みは拡がった。貧富の差が大きくな
り、社会不満が高まると云う弊害を産んだ。やがて「イスラム原理主義」の運動
に火をつけ「紛争」「テロ」が世界中に拡がることへの口火を切るのであった。

「パレスチナ問題」の歴史(後編)
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