3.鉄器革命と古代トルコ民族(前1200年−8世紀)


3.1牧畜と農耕の始まり −新石器時代から紀元前民族移動−
中央アジアには、オアシス、砂漠、ステップが散在する。ステップとは荒れ地だ
が程よく乾燥し、砂漠のように高温でなく、灌木が茂り、草原があり、小動物の
生活に適する土地のことを云う。ウルム氷河期中は湿った偏西風が、地中海、ア
フリカからアラビア、メソポタミアを横断してイラン、インドへ達していた。サ
ワラ砂漠では定期的に雨が降り、ユーラシア内部でも、雨量は現在より遥かに多
かった。ヨーロッパの大部分はツンドラ、ステップ帯で、西アジアは森林、サバ
ンナ帯であった。氷期の後、氷がもつ潜熱と、蒸発する水分が大気圏に混入し、
気温は上昇を続け6000年程前に現在より2−3度高くなってピークに達し、以後、
徐々に下降し寒冷化が始った。広範囲に地球を覆っていた氷河が解け、海の水位
は100m近く上った。それで陸続きだったブリテン、ジャワ、日本等は島となり、
ジブラルタル海峡の大滝は水没して現在の姿の地中海となり、スカンジナビアに
はバルト海ができ、湖だった黒海にはボスポラス海峡が生れて地中海と繋がった
。ユーラシア大陸の東端にはベーリング海峡ができた。一方、湿めった西風は弱
まり、乾燥化が進行した。ヨーロッパのツンドラやステップは楡、樫、ブナ等の
温帯林となり、地中海南側、中央アジア高地のステップは砂漠化した。このよう
な自然環境の変化は動物生態に大きな変化を与え、マンモス、多毛サイ等の寒系
大型動物は絶滅、トナカイは北方へ逃れた。それに代わって小型群生の狐、猪等
が森の主となり、西アジアからは狼、ヒグマが消え、カモシカが優勢となった。
6000年程前から、寒冷化、乾燥化が進行し始めた頃、人類は大きな転機を迎えた
。それまでの狩猟、採集時代(旧石器時代)から、新しい環境に適応して新石器時
代へ入る。その第一段階は、新しく森林の主人公となった小動物の捕獲法の進歩
、すなわち、弓矢の発明、さらに槍、銛を盛んに利用、さらに、新しい食糧資源
として魚貝類捕獲を始めた。釣針の改良、漁網、船(丸木舟、皮舟等)の開発、漁
労技術の改善が行われた。これで海上移動もできるようになった。造船が誕生し
たのであった。鏃(やじり)、小形石器、石斧、磨製石器等が発明された。第二段
階は穀物栽培、動物飼育の開始であった。そして、この動きは西アジアを初めと
して大陸全土に普及した。人類は天然資源獲得経済から生産経済へ移行したので
ある。土器つくり、紡績、治水灌漑、そして、定住化が始まり、村落が造られた
。農耕のため、天文学、暦学、初期数学が初めて考え出された。小動物の飼育は
肉ばかりでなく乳、皮、毛も有用である。群生するから管理が容易、成育が早く
、獰猛でなく、知能も中程度で飼い易く、草食であるから農耕の廃材、茎、籾殻
の資源リサイクルが可能、糞は肥料となる。「牧畜と農耕の併用」は相互補完の
エコロジーである。このようにして牧畜は発達した。中央アジアではオアシス、
ステツプが混在し、水を求めてオアシスに集まる小動物の馴致も容易であった。
そして、ステップで遊牧し、オアシスで農耕すると云う相互依存方式は食糧生産
に好適であった。ユーラシア内陸のステップでは、牧畜は4000年前から始められ
ていたと云う。牧畜の民は騎馬を用い、定住の民は青銅器製作技術を身に着ける
ようになった。そして、遊牧民、農民の間に「反発、争い、交流、相互依存」と
云う、現在も延々と行われている人間の行動が始まった。氷期後の気温上昇は紀
元前2000年位から下がり始める。この頃は、牧畜、農耕への移行の初期で、食糧
生産効率がそれ程上らない時期であった。北ユーラシア高地、中央アジア・オア
シスの諸部族は、それぞれ、段階的に南下を始めた。例えば、北方高地の民が中
央オアシスへ移動すると、オアシスの住民はメソポタミアへ移動すると云う具合
に、紀元前の民族大移動が幾度となく行われた。先に移動した集団が、長い年月
を要して先住民となったところへ、北方民族がまた移動してくると云う具合であ
った。民族移動は西方へ向かっても行われ、ケルト族、ゲルマン族、ノルマン族
等が誕生した。南方へ向かった集団は、ペルシャ、メソポタミア、アナトリア、
アラブ、エジプト、地中海沿岸等に到着、また、印度へも、ヒンドウークシ山脈
南部(アフガニスタン)、カイバル峠を超えて、インダス河、ガンジス河流域方面
へと幾度となく民族移動が行われた。そして、移動先で先住民との間に、「戦争
と平和」、「混交多血化」が進み、それにより、文化文明が発達し、都市化が促
進され、人口が増加した。東アジアでは黄河、長江流域に住む漢民族と南下する
北方民族が相い争った。かくして、世界最古の文明、メソポタミア、エジプト、
地中海、インダス、黄河の諸文明が誕生した。ユーラシア全域に亘る民族移動は
、前1世紀の「ゲルマン民族の地中海地方への再移動」を最後に終息した。この
長期にわたって起った民族移動の起爆剤は、寒冷化現象と食糧難であり、定住化
し都市を築いたのは人間の意欲と知恵であった。

3.2鉄器革命 (前1200年−前7世紀)
新石器時代の割合に早い時期に、人類は銅、金、銀の製法を考案した。そして精
錬に1200度以上の高温を要する鉄の製法はヒッタイトで発明された。鉄器が出来
た時、ヒッタイトでは、その青黒い輝きが、宇宙からの隕石に似るものと考えら
れ、神秘性、宗教性をもつ物として、その価は金、銅の40−50倍と高価で珍重さ
れた。そして、その製法は秘密、国外流出禁止であった。トルコの首都、アンカ
ラの東北約150km のところに、ボアズコエイと云う寒村があり、その近くに古代
ヒッタイト王国の遺跡がある。ヒッタイト王国は前1500年頃、カフカス( コーカ
サス) 地方からアナトリアへ移住し、旧約聖書にも記載されているバビロニア王
国を滅亡させ、前1200年に消滅した。ヒッタイトが独占した製鉄技術は、同国が
滅び去って後、ようやく世界に解放された。前7 世紀、黒海北岸地方にスキタイ
族(イラン系)の遊牧・農耕複合の国家が現れ、騎馬戦用武器、馬具および騎馬技
術ほかのスキタイ文化が生まれた。このスキタイ文化にヒッタイトの製鉄技術が
用いられた。それまで馬は交通・運搬の手段として遊牧民族も、農耕両民族も使
用していたが、戦闘用には適さなかった。鉄器革命に伴い現れた新乗馬技術は、
革命的な戦闘能力を発揮するようになった。この武器革命は、直ぐさま、中央ア
ジア諸部族間を伝播し、東アジア全域を席巻し、ユーラシア大陸には「戦争と平
和」の繰り返しの暗黒時代が到来した。中国春秋戦国時代がそれであり、中華思
想で云う 「東夷」、「南蛮」、「西じゅう」、「北てき」の中で、北方騎馬 民
族が「北てき」、オアシスの農耕民族が「西じゅう」と呼ばれるようになった。
「シルクロード」の東西交流は紀元前から、「戦争と平和」の繰返しの中に始ま
り、「西じゅう」と云われたイラン系ソグド人等の商人が文化に貢献し、紀元後
、北方騎馬 民族(古代トルコ、モンゴル人)が中央アジアを制覇するにおよんで
「シルクロード」は衰退し、東西交易は「海のシルクロード」へ移行した。

3.3古代トルコ帝国(突蕨) (6世紀−8世紀)
前3 世紀よりさらに以前、モンゴルの北方に「丁零」、モンゴルに「きょう奴」
とよばれる部族がいた。「丁零」は最古のトルコ族と云われる。中国はこれらに
脅威を感じていた。前1 世紀の中頃「シルクロード」の確保に成功した漢帝国は
脅威を取除くため「きょう奴」を攻め滅ぼしたが、「きょう奴」が崩壊した後、
4−5世紀の間、中央ユーラシアの高地、草原では、「丁零」の末裔、「鉄勒(て
つろく)」と総称される複数のトルコ騎馬民族が覇を競った。「鉄勒」はチュル
ク(トルコ)の発音から作られた漢語である。史上にトルコの名称が現れてくるの
は、このころ以後のことである。また、オアシス地帯にはイラン系騎馬民族が登
場し、これらの諸騎馬民族と中国歴代王朝は「シルクロード」の支配をめぐり争
った。 6世紀、アルタイ山脈の南に住む「突蕨(とっけつ)」は外モンゴルに移っ
て勢力を増し、頭角を現した。その軍事力はめざましく、遂に、東は興安嶺から
西はウズベキスタンのソグド地方に至る空前の地域を制圧、トルコ大帝国を建設
し、文字も創られた。最早、単なる騎馬民族ではなく、まぎれもない総合帝国 (
代表的な古代トルコ帝国 )ができあがった。しかし、支配する領土が余りにも広
大だったから、この遊牧帝国は、建国後20−30年程で、アルタイ山脈を境として
、東西の両帝国に分裂した。モンゴリアにある東突蕨は専ら中国と争い、中央ア
ジアの西突蕨はパミール東西のオアシス諸国家を従えただけでなく、イラン系騎
馬民族を滅ぼした。そして「シルクロード」経由の、中国絹の輸出の仲介をした
り、商人ソグド人を国内に移民させる等、東西文化交流の役割も演じた。各オア
シス都市には高度な文化が興隆し、国家が繁栄した。7 世紀前半、東突蕨は中国
人の誘惑に負けて軟弱化し、8 世紀中頃には、別派のウイグル・トルコ族にとっ
て替わられた。中央アジアにイスラム教が興り、西突蕨は8 世紀中頃まで、商人
ソグド人と結 んでイスラムの進出に抵抗した。西突蕨の力が弱まった8世紀中頃
、唐王朝はカシュガル付近までタリム盆地に出兵し、一時期、オアシス都市郡を
攻略したが、イスラム 軍の反撃に破れ撤退した。9世紀中頃、ウイグル族が西進
を始め、イスラムと同化するようになり、中央アジアではイスラムの勢いが、ま
すます増大した。

3.4古代日本人とトルコ人 (前1200年−5世紀)
先史の時代、日本はモンゴリアンロード上にあった。古代トルコ人のルーツはモ
ンゴルの北方地域と考えられている。バイカル湖近くにいた「丁零」族が最古の
蒙古人であると、その道の識者は云うが、それより以前のことは不詳である。だ
から類推に頼るしかない。総合的視点に立てば類推でも、結構、的を射ることが
できるかも知れない。ウルム氷河期、サハリンと日本はユーラシア大陸と地続き
であった。「丁零」達の先祖がサハリンを通り、日本へ渡来し、縄文人となった
かも知れない。縄文人は当初、狩猟・採集、移動を続ける部族であったが、氷河
期後の温暖化で常緑化した東北地方に、多数の「三内丸山遺跡」、「長者ケ原遺
跡」等のような村落を設け、定住生活に入ったのではないだろうか。遺跡から縄
文陶器と共に新石器類が発掘されている。縄文人は最古の舟を使って、日本海岸
伝いに大陸の仲間と交際し、新石器文化を 吸収したのかも知れない。彼等の食糧
は鮭、いか、貝類等の漁獲品、栗、茸、野草その他の採集物であったことが確か
められている。弥生時代に近くなり、寒冷化が進むと、一部の縄文人達は関東、
山陰、九州、北海道あるいは沖縄へ部族移動を行ったようである。これら各地で
縄文遺跡が見つかっている。移動の原因は食糧不足、または渡来部族からの圧迫
等があったからだろうと考える。アルタイ言語が独自の日本語に変わったのだか
ら、縄文人と渡来人(朝鮮人、中国人、南方人)との混交は、さぞ激しく、このよ
うにしながら縄文時代から弥生時代へ移行したのであろう。 南方から日本 に渡
来するには舟が必要である。日本の神話「山彦、海彦」や古典( 日本書記、古事
記)の中に、 「カタマラン」、「カノー」、「ツム」等、インド、タミール地方
の舟の用語に近い発音の言葉が出てくるそうである。だから、「海上から移住」
があったとしても、おかしくないだろう。縄文人の中には、他部族との交流を拒
否し、自己の 文化を固持し、多血化を避けた部族もいたことだろう。 例えばア
イヌ人、沖縄人等が その例ではないだろうか。 発掘された縄文人の住居は竪穴
式住居である。関西、九州の遺跡では上床式住居が発掘されているから、上床式
は渡来人のもので、弥生人には渡来人が多く、彼等は九州、西日本に集中して居
住した模様である。 縄文人の人口は当初26万人、縄文末期には7万人まで減少し
た。これは、寒冷化等による狩猟採集困難の故かも知れない。ユーラシア大陸と
違い、島国の日本においては、大きな民族移動はできない。渡来人進出による圧
力もあったことだろう。とにかく、縄文人の人口は減少していったのである。弥
生時代末には、渡来人により稲作文化が導入され、食糧生産性がよくなり、人口
は増大し、奈良時代には500万人に達した。 このように、経済が急成長し、また
一挙に国家統一がなされたことから、スキタイ騎馬民族文化が日本に伝来したと
云う説がある。 同文化は騎馬民族から中国に、さらに朝鮮半島に伝わり、5世紀
以後、日本に伝来したと云う。「騎馬民族による日本征服説」は1947年、江上波
夫氏により提唱された。 この仮説は「東北アジアの騎馬民族が、新鋭の武器 と
乗馬技術をもって、朝鮮半島から北九州に侵攻、4−5世紀初、畿内に達し、強大
な軍事力で在住部族を制圧し統一国家、大和朝廷を建てた」と云うものである。
この説自体は無理があり受け入れられないそうだが、少なくもスキタイ騎馬民族
文化が古代トルコ民族を経て日本に達したことは疑いようがないと思われる。過
日、民間放送で俳優、仲代達也氏が出演、縄文人がポリネシアから南米まで海上
民族移動した作品が放映された。これは縄文人移動とポリネシア民族移動を連結
したフィクションであると思う。けれども、縄文人が陸または海のルートを使っ
て日本列島内を移動したことは事実であろう。次ぎに、キルギス族は、かなり昔
からテンシャン山脈の西端に住むが、ほんとうの故郷はモンゴル北方にあるので
はないかと考える。彼等のルーツは縄文人と同じではないかと思われる。もしそ
うなら、テレビ画面でみるキルギス人と日本人が似ているのも当然である。


注)縄文人の話は参考文献12)に挙げた藤原公平氏(旧川重)の講演を参考にした。

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