4トルコ人帝国 の繁栄 (8-15世紀)


4.1 古代トルコ民族、「故郷」の伝説についての話。
「突蕨」の旗じるしには狼の飾付けがついていた。古代トルコ人の各部族には、
それぞれ「狼の伝説」が語り伝えられていた。その内容は少しずつ異なるが、一
つを取り上げると次ぎのとおり、「大昔、祖先が敵に襲われて全滅した。その時
、蒼い毛に覆われた雌狼が、傷ついた男の子を助け、連れ帰って育てた。狼は成
人した子供と交わり、10匹の子供が生まれた。その子達は家庭を持ち、子孫を残
した。やがて、特別の霊感をもつ子供が生まれ、指導者となって敵を倒す」。さ
て、モンゴル民族の伝承にも狼が出てくる。13世紀のチンギス・ハンも「蒼い狼
の子」と云われた。このように、「狼の伝説」は広く北方民族全体に普及してい
たのである。「狼」は大昔から畏敬する動物であるから、「狼」にあやかって祖
先の魂を呼び起こし、結束しようとする騎馬民族の強烈な精神性を伺うことがで
きる。西欧の童話では狼を恐ろしい獣として扱っている。また「狼男」のよに悪
者に仕立ている。これは、「狼の子」チンギスハンの残虐さの噂を伝え聞き、恐
ろしい者の代名詞として「狼」を挙げたのではないだろうか。西突蕨が滅び、新
時代を迎えた中央アジアのトルコ人は、蒼空の彼方に「狼」の姿を思い浮かべ、
先祖の偉業を偲んだことであろう。そして歴史は転換し、「トルコ民族の西走」
時代が訪れる。

4.2 イスラム教の歴史
「イスラム教勃興」、「トルコ民族西走」、両者の時代位相が合ったことは歴史
上に特筆される「めぐり合わせ」であった。そこでまず、イスラム教の歴史の梗
概を述べる。イスラム教信者の数は、世界中で10億人から13億人にも達すると云
われ、今や、キリスト教を凌駕する勢いで、その信徒数は、従来の勢力圏を越え
て、ロシア、インドネシア、アメリカ等、世界至る所まで増加中である。スンニ
ー派が大多数を占め、シ―ア派およびその分派は少数である。スンニー派は現実
主義的、漸進主義的、シーアは理想主義的、急進主義的である。シーア派はイラ
ン、イラク、レバノン、アフガニ スタン、インド、パキスタン、アゼルバイジャ
ン、中央アジア地方に8000万人が住むと云われるが全信徒数の10%に満たない。6
世紀初、ペルシャ、ササン朝と東ローマ帝国の国境で戦闘が起こり、「シルクロ
―ド」の東西交易は困難になった。ペルシャ湾、紅海経由の「海のシルクロード
」も必ずしも安全ではなかった。アラビア半島を迂回する交易ルートが活発化し
、中継点 としてメッカ、メヂア( 定住都市)が發展した。また、メッカはアラブ
の伝統的多神教の聖地となった。ムハマンドはアラブの商業貴族の一員としてメ
ッカに生まれ、610 年頃、イスラム教を創始したが、多神教信者から迫害され、
メヂアへ逃れ、622 年、イスラム共同体(教団国家)を興した。それまでの宗教と
異なり「偶像崇拝を否定し、 唯一の神はアラー、「コーラン」(神の使徒として
ムハンマドが授かった教典)を奉じ、 神による最後の審判と来世の存在を信じる
こと」であった。 日常生活は「コーラン」に従い「一日5度の礼拝、ラマダーン
の断食、救貧税の支払い、できればメッカへの巡礼、異教徒に対する聖戦の実行
」である。精神的な信仰に止まらず、個人生活、社会、文化、さらに国家政治も
律するきびしい教えである。ムハンマドはイスラム建国後10年で死亡したが、イ
スラム教は急速に普及され、後継の各王朝はイスラム軍を組織してジハード (聖
戦)を始めた。「イスラムの敵を倒せ」が正直に実践され 「政治、軍事、宗教」
が一致した。そして、イラク、イラン、シリア、パレスチナ、エジプト、イベリ
ア、アフリカ北部、インド北西部を制覇し、広大なイスラム大帝国が建設され、
16世紀まで繁栄した。ブハーラ(中央アジア )、バグダッド(イラク)、カイロ(エ
ジプト)、コルドバ(イベリア半島 )等の諸都市を中心に、「イスラム文化・文明
」が咲き誇った。初期の王朝、ウマイヤ朝(アラブ系)、アッバース朝(アラブ系)
、サーマン朝(イラン系)では、アーリア人の後裔(アラブ、イラン人)がスルタン
(君主)になったが、10世紀以降のカラ・ハン朝、セルジューク朝、ホラズム・シ
ャー朝等では、トルコ系民族のスルタンに取って替わられた。13世紀、チンギス
・ハンの襲来に破れ、中央アジア地方はモンゴルに支配され、また、同時にキリ
スト教との戦いにも苦戦したが、イスラム勢力は残存し、14世紀、イスラム再興
のチムール帝国が興り、蒙古系は自滅、チムール帝国が滅亡した16世紀、その後
裔パーブルがムガール帝国(イスラム )を興し、インドの大部分を支配した(18世
紀、衰退し、英国に植民地化された )。上記とは別に15世紀、イスラム、オスマ
ン・トルコ(ウズベク、トルコ系)がアナトリアに建国された。オスマン衰退後、
英国により植民地化され、19世紀末、イスラム内部の腐敗を糾す潮流がアナトリ
アに興り、「イスラム原理主義」が生まれた。 そして、祖国解放運動に発展し
、第一次大戦後の1923年、トルコ共和国が生まれた。第二次大戦後、イスラム近
代化運動はイランにおいて再燃し、原理主義的ホメイニ革命(1979年)が勃発した
。「原理主義」は「個人平等」、「社会公正」、「政教一致」等を強く提唱する
から、急進すると現実の社会と衝突する。従って、テロに走る過激派が発生する
のは自然の成行きかも知れない。けれども、「原理主義」そのものが、直接、「
イスラム武装勢力」や「テロ 行為」に結び着くとは考えられない。 イスラム教
が、今後、「国際社会と共存共栄」の方向へ転進することを望むものである。

4.3 ウイグル族の西進、カラ・ハン朝
「トルコ民族西走の先駆け」について述べる。
8世紀、ウイグル・トルコ族が東突蕨を滅ぼしたことは既述した。その頃、ウイ
グル族は、バイカル湖、南側の草原で遊牧を続けていたが、唐から中国文化を取
入れ、国際商人、ソグド人(イラン系)の影響を受け、自己の文化的向上を図って
いた。その 結果、軍事的に弱体化し、9 世紀、近隣のキルギス人(当時、キルギ
スは極東にいた)に攻撃され壊滅した。 多くのウイグル人は、モンゴル高原から
西方へ移動した。一隊は、テンシャン山脈東部へ向かい、トルファンを中心に西
ウイグル王国(天山ウイグ ル王国 )を建国して定住生活に入り、仏教を信仰し、
文化を継承・発展させ、折衷文化を産み、13世紀のモンゴル時代まで、この地を
支配した。西走を続けた別のウイグル族はタリム盆地西端のカシュガルを中心に
定住し、さらにパミール高原を越え、サマルカンドに進出、カラ・ハン朝を建国
した( ハンとは遊牧民族の君主に付ける称号のことで、カガン、カンとも表現さ
れる)。そして、10世紀中ば、東進してきたイス ラム教に改宗し、「トルコ系イ
スラム王朝」の第一号となった。西進するトルコ民族と、東進するイスラム教が
中央アジア東部で出会う形となった。カラ・ハン朝は10世紀末、イスラム国家サ
ーマン朝(イラン系 )を滅ぼし、西中央アジアのオアシス都市地 帯も手中に納め
た。政治的には確固たる統一国家ではなかったが、イラン系王朝に替わる「トル
コ人王朝」の出現は、周辺、山岳地帯の遊牧トルコ人の集団的な移住、「中央ア
ジアのトルコ人化」に大きな道を開いた。その後、カラ・ハン朝は東西に分裂し
、11世紀後半、同じトルコ人で西アジアの支配権を握ったセルジューク朝の支配
下に入ったが、13世紀初、滅亡した。

4.4 セルジューク朝
中央アジア北部のトルコ系セルジューク族は10世紀、アラル海の近くに住居して
いたが、イラン系サーマーン朝が滅び、トルコ系カラ・ハン朝が建国されると、
集団移 住の絶好の機会がえられたので、 イラン系サーマーン朝滅亡後の荒廃し
た東部イランに移動した。そして11世紀中ば、バグダードに入城、ここを首都と
し、セルジューク朝を建国、やがてカラ・ハン朝も配下に置き、西アジアの大半
を支配する大帝国に成長した。これにより、パミール以西のトルコ化はより進展
し、住民の大部分はトルコ語を話し、国語としてトルコ文字が使われたが、ペル
シャ語を話す人達も存在した。「中世のトルコ人」の代名詞として「セルジュー
ク・トルコ人」と云う呼称が使われる。

4.5 蒙古侵入、チャガタイ・ハン国
11世紀、セルジューク朝が建国された時、セルジュークの出身地、アラル海近く
にホラズム・シャー朝と呼ばれる地方王朝があった。同王朝はセルジュ―クの支
配下に入ったが、11世紀末、衰退したセルジュークを滅ぼした。ホラズム・シャ
ー朝は、パミール高原以西のオアシス地帯を領域とし、東方イスラム世界の最大
強国にのし上がった。同じ頃、東方モンゴリアの草原では、チンギス・ハンが強
力な遊牧国家を建設、中国制覇を企て、11世紀初、中国北部を支配する金朝の首
都を制圧した。チンギスハンは「対中国」に熱中し、ホラズム・シャー朝とは争
いを避けようと、友好使節を送ったが、ホラズムはこの使節を虐殺した。怒った
チンギスは復讐のためホラズムシャー朝の討伐を決意する。まず配下の将を派遣
して、タリム盆地西部を掃討した後、チンギス・ハンは3人の息子、 10万人の軍
勢を率いて中央アジアに侵攻、ホラズムは40万人の軍隊で、これを迎え撃ったが
、モンゴル軍は強く、ホラズム軍は各個撃破され、1220年3月 、ホラズム・シャ
ー朝の首都、中央アジア最大の都市、サマルカンドは完全に破壊され、ホラズム
は滅亡した。チンギス・カンはさらに、アフガニスタンも攻略、インドに入りイ
ンダス河畔まで達したが、ここで戦闘を終了させた。かくして、中央アジア全域
はモンゴルの手中に落ちた。 チンギス・ハンは占領した中央 アジアの諸王を自
己の配下として自立させ、自分はモンゴルに戻って、「大ハン」となり、政治、
軍事を遠隔地より管理し、住民の仏教化も図ろうとしたが、イスラム文化には立
入らなかった。 チンギス・ハンは2年後に死亡、直系の家族が「大ハン」を交代
で受け継いだが、やがて内紛が発正した。チャガタイ家( チンギス・ハン長男の
家族)は中央アジア東部へ移住、チャガタイ・ハン朝を建国した。 そして「大ハ
ン」の権限を本国モンゴリアから奪いとった。しかし、チャガタイ家でも内紛が
起こり、中央アジア全域を支配する力量はなくなり、隣国のイラン系、イル・ハ
ン国に攻め込 まれるなど、蒙古化どころか、 自身がイスラム化してしまう道を
歩んだ。これに伴い周辺トルコ遊牧民の定住化が再び顕著になり、チャガタイ・
ハン朝の内部で「イスラム派」対「仏教派」の対立が激しくなり、14世紀中頃、
同国は東西に分裂した。そして、チムール帝国が出現し乱世を平定、「中央アジ
ア蒙古」は滅亡した。

4.6 チムール・帝国
14世紀中頃、5 代前の先祖がモンゴルであったと自ら云い続けたチモールは、サ
マルカンドの南、ケシュ近郊のイスラム部族の一員として生まれた。指導者とし
て才能あり、盗賊団を指揮し、仲間の数を次ぎ次ぎと増やしていった。そして、
周辺地帯の支配権を獲得し、チンギス・ハン家の一王子を擁し、自らはハンの血
筋をひく女性を娶って、チムール帝国を建国した。死没する15世紀初まで35年間
、絶え間のない遠征を敢行し、東は中国の辺境から西はアナトリアまで、南はイ
ンド北部から北は南ロシアの草原地帯にいたる広大な帝国を建設した。遊牧民の
伝統を継承しながら、定住民の経済力を尊重し、高い文化を築いた。すなわち、
蒙古人の武勇とイスラムの文化を融合させた。都市国家を発展させたが、自身は
遊牧民の生活から離れることができずテント生活を続けたと云う。この国の発展
はチムール個人の能力に負うところが大き かったので、 彼の死後、チムール帝
国は徐々に衰退し、ついに分裂、16世紀初、滅亡した。チムールの孫、パーブル
が中央アジアを去って、インドへ移り、ムガール帝国を建国したことは既述した
。チムール帝国の滅亡後、ロシア南の草原に新たなトルコ民族魂が勃興し、カザ
フ、ウズベク、トルクメン、タジク、キルギス、ウイグルの各民族社会が創られ
た。独自民族社会の世界が始まったのであった。けれども、18世紀、東方から清
国、北からロシアが侵攻し、その支配下に入れられ、発展の力は萎えてしまった
。1980年、ソ連の崩壊により、ウイグルを除く、トルコ民族諸国は独立し今日に
至っている。ウイグルは中国新彊ウイグル自治区となっている。

注) 本文を読み易くするため、「トルコ民族移動図」を作成しました。目次の
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