5 オスマン・トルコ帝国の盛衰(13世紀―18世紀)
オスマン・トルコは中央アジアのセルジューク朝(トルコ)が枝分かれし、13世紀
、ウズベク人が建国した。トルコ民族のアナトリア地方への進出は二波に分けら
れる。第一波は11世紀に起きた。セルジューク朝の軍隊はトルコ人奴隷を軍人に
登用したが、やがて彼等の勢力が強まり、マムル-ク(軍人奴隷 )軍隊と云われる
までに発達した。彼等はビザンチン軍隊を破り、アナトリアの奥深く侵入した。
これが11世紀に始まった十字軍運動のきっかけとなった。こうしてアナトリアに
進出したトルコ人はルーム・セルジューク朝を建て、アナトリアのトルコ化に先
鞭をつけた。第二波は13世紀、蒙古の中央アジア席捲により、それらの地域の遊
牧トルコ人が大挙アナトリアへ流入した。その移住組の中からオスマンが現れた
。オスマン帝国は14世紀、コソボ平原で南スラブ連合軍を破り、さらに、ハンガ
リー、独、仏、英連合軍を撃破、その支配圏をドナウ川流域まで延ばした。15世
紀、ビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルを攻略、イスタンブールと改称
し、首都とした。16世紀、イラク、エジプトを奪い、聖都メッカ、メヂアを領有
、カリフの称号を得た。さらに、ハンガリーの大部分を収め、オーストリア・ハ
プスブルク家の都ウイーンを包囲攻撃するまでに至った。こうしてバルカン半島
のほぼ全域を領土とし、18世紀末まで勢力を維持した。オスマントルコ帝国は遊
牧国家として出発し、軍事国家として発展し、20以上の民族を包含した複合イス
ラム国家であった。やはり、捕虜、奴隷を軍人に登用、キリスト教子弟を養育、
優秀者を文武の高官に登用した。やがて宰相、高級官僚が彼等により占められ、
その上にスルタン(世襲)が君臨した。法学者、神学者を抜擢し、イスラム法を国
家権力の上に置き、キリスト教、ユダヤ教に対しては信仰の自由を認め、宗教共
同体(ミレット)を組織させた。また、西欧諸国の外国人特権を認めるなど、西欧
に対して寛大であった。教育制度も整備され、高等教育機関も設立されたが、こ
れは官吏、法学者、神学者の養成機関で「科学技術」、「創造心」の教育は行わ
なかった。ビザンチン帝国の有形無形の文化を継承し、鉄道工事、諸建設工事は
外国企業からの借款に委ね、自国経済性について顧みなかった。そのために、イ
スタンブールは西欧化し、植民地化されたようになり、イスラム民衆の反感を買
った。18世紀、西欧諸国は競って西アジア進出の行動に移つた。これに気付き、
オスマン王朝は急きょ「西欧化」を模倣し、近代化を推進したが、単なる模倣で
は対抗できず、反乱も続出するようになった。ギリシアは英国、フランス、ロシ
アの援助を得て独立し、アルジェリアはフランスに占領され、アラビア半島西南
端アデンは英国に占領された。18世紀中頃、ルーマニア、セルビア等のバルカン
民族は露土戦争の結果、独立した。こうして、オスマン帝国はヨーロッパ領の大
部分を喪失し、トルコ自体は西欧の植民地のようになり果てた。
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