6 トルコ共和国 (1923年―現在)
19世紀、アナトリアで「青年トルコ党」が武装決起し、国内アラブ民族の離反を
強めた。「第一次バルカン戦争」に敗れ、領土をバルカン諸国に割譲した。「第
二次バルカン戦争」でセルビアとオーストリアが争い、オーストリア皇太子の暗
殺を契機に第一次大戦が起こった。オスマン・トルコは、同盟軍( ドイツ、オー
ストリア)側に加担し、連合軍はアナトリアの分割に乗出した。大戦中に諸地方
(アラビア、パレスチナ、シリア、イラク)は連合軍(英国、フランス)の掌中に渡
り、アナトリア南西部には、 英軍支援のギリシア軍が上陸した。この亡国の危機
に、トルコ各地で民衆による祖国解放運動が展開される。ムスタファ・ケマル(後
のケマル・アタチュルク。アタチュルクはトルコの父の意)はこれらの運動を統合
してトルコ国民軍を組織し、連合軍の傀儡、オスマン政権を打倒し、 連合軍と各
地で交戦、 「トルコ革命」を達成した。そして、アナトリア領土を確保し、首都
をアンカラと定め、1923年 、現在の「トルコ共和国」が建国された。アナトリア
東部のアルメニア人、 戦時中にアナトリアを攻撃したギリシア人は、「トルコ革
命 」後のトルコ民族主義高揚の中、アナトリアから排除されていった。トルコ共
和国は、現在、トルコ人が80%を越え、クルド人、ギリシア人、アルメニア人、ア
ラブ人、その他の少数民族が散在し、 これら少数民族との間に民族的軋轢が残っ
たままである。総人口、約5000万人、大統領制共和国である。陸海空の3軍を備え
、NATO加盟国、国内26箇所に電子情報基地等の米軍基地がある。宗教は99%がイス
ラム教、ほとんどはスンニ派で、キリスト教、ユダヤ教は少数、 信仰の自由は保
障され、また、政教分離である。首都アンカラはトルコ第二の都市、 アナトリア
高原の内陸部にあり、海抜800m の盆地、年間降水量が少なく、古い歴史的背景を
持っ都市である。前8世紀のフリギア、前2 世紀−前25年のガラテイアの首都であ
り、ローマ時代も地中海沿岸を結ぶ政治、軍事、商業上の要地であった。 イスタ
ンブールは現在、 トルコ第一の大都市、降雨量も多く、温暖で、世界の観光地と
して有名である。 ボスポラス海峡、金角湾を挟んで、ビザンチン帝国の街スタン
ブル地区、オスマン時代の市街ベイオールー地区、 トルコの伝統を示す街ユスキ
ュダル地区の3地区に分かれ、チューリップ、トルコ行進曲、トルコ帽、トルコー
ヒー等が連想される東西文明の接点である。 ちなみに、チューリップは、フラン
ス王朝の暮らしを真似るため、トルコ帽は軍服を洋服に改めた時、 ターバンの替
わりにかぶる帽子として、19 世紀のスルタンが考案したものである。トルコ共和
国は、西アジア最大の農業国で、 近代化政策により工業化は進んでいるが手工業
中心である。第二次大戦は中立で過ごし、再三のクーデターを経て、 近年、漸く
近代化が奏効したが、 1970年代のオイルショツクの影響を受け、経済がきびしく
なり、低所得層がドイツへ大量移住し、国際問題を引き起こしている。 農業では
小麦等の生産は世界第7位、綿花、タバコは世界第6位、葡萄第7位。葡萄は殆どが
干し葡 萄に加工され、世界のシェアーの40%を占める。 イスラムの教えに忠実な
禁酒国家だからである。アナトリアは 4000年間、欧州とアフリカ、アジアを結ぶ
十字路であった。さまざまな人種、民族が通過し、あるいは定住してきた。 地学
的にも、アナトリアプレートの真上に乗り、 地震が頻発する地域である。そして
、人類史上、最古の文化発祥地の一つである。 世界中の人は、アナトリアの遺跡
に関心をもつが、この国の人達は無関心である。 これも歴史の非連続性が生んだ
ものであろう。住民中の80%を占めるトルコ人は、異なる空間を移動しながら、民
族の歴史を歩んできた。 自分達より前に生活していた諸民族の歴史、文化に必ず
しも関心を寄せる訳にもいかないのであろう。 彼等には、帰るべき故郷は見あた
らない。
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